パーマカルチャー

一見相容れないコンセプトを統合することの力-Integrate rather than segregate-ブログ第38回

前回、自然農と有機農をパーマカルチャーの文脈で学ぶことの意味を書いたが、このように一見とても離れている考え方を、統合して一つにまとめる力を、パーマカルチャーは良く引き出している。それは、そもそもパーマカルチャーが、自然農というものと、現代の科学という一見両極のものを統合していることが、基礎にあることも象徴的だと思う。

普通は、一つのコンセプトがあったら、それと対立するようなものを中に含むと論理的に破綻してしまうと思うだろう。それは、わたしたちの世界観をとてもよく反映していて、正義や真実は一つであり、物質もバラバラにしていくと一つだという、端的にそのことを言い表す言葉を使うと、還元主義と呼ばれる考え方をよく反映している世界に生きている癖のようなものかもしれない。そもそも、今と同じ条件が続いた世界で、同じ方法で何かを達成することができることはとても大切だ。将来の見通しが効き、計画すること、長期的な計画と投資をすることが安定してできる、安定した世界だ。

一方で、こういった世界では、計画することはとても得意だが、変化に対応すること、場所が変わった時に応用することがとても苦手だ。いまの時代は、気候がエルニーニョの時と、ラニーニャの時で梅雨の時期や台風の影響が変わり、また黒潮の蛇行と気候変動と、気候だけとっても変化が盛りだくさんだ。こういった中で、変化に対応する思考を考えると、どうやったら成功するかを一つのコンセプトで思想と手法が決まっているものよりも、その基本的な原理原則がありつつも、文脈や状況に応じて、応用や変化の効く手法の方が、理にかなっている。

コンセプトが2つあるという捉え方ではなく、縦軸と横軸という意味で捉えると、より分かりやすくなる。縦糸は、自然農の思想の自然と共に働くというコンセプト。横糸は、生活に必要なものを手に入れるためのデザインの科学という形だ。私たちの暮らす世界は、そもそも自然の中に含まれており、その自然の原理原則を科学はその一部を照らして原因と結果を私たちにしめしてくれている。一方で、私たちがその世界とどうかかわっていけばいいのかということは、世界を照らすことと別に、自分たちが見える範囲であるいていかなければならないため、懐中電灯が、どちらに歩いていけばいいか教えてくれないように、役割が違うように思う。

科学は、どんな地域でも地球上の物理法則を記述する有効な手段であり、炭素と窒素、土壌の循環や、植物に必要なカリウム、ナトリウムなどの物質を広く記述するすべであり、本来応用に適した基礎であるはずだ。一方で、私たち人間も、科学よりも、目の前の観察よりも、自分たちの思い込みや考えかた癖を優先してしまうぐらいに、厳密ではないということだ。世界が変化に富むように、私たち自身も、楽な方に流れ、変化に富み、感情的な存在であることを忘れてしまいがちだ。

人々のこういった性質に対して、耳障りのいい言葉や、思い込みは、暗闇の中で、こっちと言われた方に、懐中電灯を持たずに進んでゆくことと同じことでもあると思う。いつの時代においても、自然と関わる上では、暮らしのそばに自然があり、観察が先に立ち、因果関係の体系がそれぞれの個人に存在していたうえで、自然に関わっていたことを忘れてはいけない。

そういった生活に根差した観察と体系を構築する機会を失っているわたしたちは、基礎的な因果関係の理解を得るうえで、科学的な知識を一度身に着けることは、必要なことであると思うのだ。自然は基本的に弱肉強食であり、不合理な戦略をとると、そのようなフィードバックがきちんと結果として帰ってくる。植物がいつ、どこで生えるのかということ一つとっても、多様性の中で、生存競争のなかで見つけたニッチに適応するために存在をかけているのであり、それにそぐわない形で世界に存在できるほど、余白がない。

つる植物が伸びるスピードが1日に数センチも伸びて、樹木や草のスピードよりはるかに速く、暗いところで生きていける樹木でない限り、日照がないと死んでしまうのは、どういった農法をとっていても変わらない事実だ。そういう環境下では、なんらかの人間の働きかけがないと、畑を維持できない。

私たちの大きな勘違いは、条件と手法さえ整えれば、どのような環境でも、同じような成功が再現できてしまうのではないかと考えがちなところだが、どちらかというと自然界の原理原則を学んで初めて、大きな勘違いによる初歩的な失敗を抑えることができるというところまでたどり着けるということが、変化の大きい世界で、懐中電灯のような知識を持つことの意味であると思う。

複数の考え方を統合させてゆくことの力を引き出すことは、特に変化の大きい世界で、組み合わせて、自分の文脈や土地にとっての最適を探すことを、自分たちの手で行いつつ、観察をするうえで、ものの見かたの指針として、科学だけではなく自然と共に働くというコンセプトが入ってくることによって、見えていなかったそれぞれの林床の草の働きや生物の働きが目に入り、微かな声で語られているものに気付けるのだと思う。