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ブログ50回プラットフォームと価値の重みづけ、消えていく文化と文化を作ること

私たちが暮らしている社会は「自分たちで価値を見出してそれを大切にする」社会から「価値が既に存在し、それはプラットフォームやテクノロジーが示してくれる」現実を生き始めているのではないかと思います。

特に、それは子供の遊びを見ていると感じることがあり、地域という大きな遊び場があった時代は、自分で遊び方を考えて、特に自然や畑みたいな場所があれば、そこでどのように安全に遊んだらいいかということは、作りこまれ、よく広告されたパッケージがなくても、考えて遊んでいた時代があったと思います。

しかし、今は商品として、特に「遊びのプラットフォームの中から購入する」という経験をし始めています。ここで、何が「市場化」されたのかというと、自分たちで見出した価値を体験しに行くのではなく、体験は購入するものである、という社会にだんだんと慣れ始めてきたのだと思いますし、僕が収入を得ているガイド業は、まさにそういう文化の中に成り立っている産業です。

そもそも、体験に価値や格差があるのではなく、その体験から何を学ぶのかということが、人が生きる力を得るうえで重要であったはずで、体験そのものが、価値が低い、高いということは比較できるほど単純なものではなかったはずです。

なぜ、このようなことになっているかという背景を考えると、社会の変化があり、情報の伝達のされ方が、親や子供のネットワークの中で、特定の場所がありそこでともに何かを経験して体験を構築するというよりも、まずは徹底的なネットワークの分断と、親も子も、人が個として存在する社会へと変化が、日本の場合は、ゆるやかにすすんできたのだと思います。

子供と一緒に遊ぶことも、何も特別なことをしなくても、自然の中に一緒にいて、一緒に楽しんであげることが大切であって、何かを購入し、手順通りにやらなければ、いい体験にならないということは、なかったはずです。むしろ、体験の概念にも、先生と生徒がいて、行為にも正解があって、それにこたえることが価値だという認識で、学校のように何かを教えるということが価値だと考えていれば、その体験はそのようなものとなります。

社会背景としても、田舎のように遊ぶ場所がその辺にあって、気軽に子供が友達と勝手に出かけられるような環境ではなく、苦情が来ることや、子供だけでどこか出かけることが難しくなってきたこと、また親も共働きで、時間をかけて考える時間がないという習慣の変化も、おきてきたことだと思います。冒頭にあげた、私たちが暮らしている社会は「自分たちで価値を見出してそれを大切にする」社会から、国家や企業、専門化にいろいろなものをゆだねていった過程は、民衆世界から福祉国家への変化ということで捉えることができます。それは、江戸時代の民衆の研究者であった、渡辺京二さんが、近代についてうまくとらえていますので、文末に引用しておきます。※1

自律的な民衆世界があった世界から、福祉国家の社会という形で社会が大きく移行してゆく中で、共同体が解体されるプロセスが進んでゆくことで、人々は自主独立しており、自分たちで自分たちの価値を決めてそれを大切にしてゆくということから、市場や国家、メディアが、まなざす価値こそが価値であり、まなざされないものには、価値はないという世界が、テクノロジー、そしてプラットフォームによって、より加速して今現在すすんでいるように思います。

今、何が価値の重みづけをする力が強いかというと、検索で上位にくるもの、アルゴリズムのおすすめ、つまり大手のプラットフォームの上位に来るものがグローバルな形で展開しており、物を購入するときも、旅行の時にもプラットフォームの上位に来るものこそが価値だという世界になりつつあります。

こういったアルゴリズムは、プライベートブランドのもの、価格が安く出せるものをおすすめしてくることや、直前までの予約キャンセルに対応すること、などプラットフォームの正義が前面に出ます。そうすると、複数ある商品の価値の複雑さ、例えばリサイクルできるリチウムイオン電池が使われていることや、環境に配慮したツアーを作っていることも、同じように商品の価値に内在されていますが、これらの複数の価値どれに重みづけをするのかということを決定できる権利があり、基本的にプラットフォームが、その複数の価値の重みづけを独自に行っています。

またインスタのように、写真をとること、写真映えすることが価値であるということが社会化されると、それによって、現地も写真を撮るスポットを作ることや、そこに課金をすること、また整備することや資本をそちらに振り向けることにもつながります。目には見えないものを大切にすることや、複雑でわかりづらいものを大切にすることは、どうしても優先事項が下がってゆく社会となります。つまり、私たち人間の暮らしやすさや、生活基盤が中心にあって、人間中心の社会が文化を作っているというよりも、テクノロジーがその都合で、公共財を使ったインフラや我々の習慣を変えてゆくようなことが、起きているのではないでしょうか。

そういった文化が訪れる側、受け入れる側で一周すると、そもそもの価値認識として、過去に大切にされていたものが、目立たず、わかりづらいものであった場合、その価値を、認識できなくなってきます。習得に時間がかかるもの、またそれが言語化できないものである場合、そういったものの価値の重みづけが軽くなってゆき、目に見えるもの、簡単にわかりやすいものが、比重を増してくる傾向はすすんでゆくのだと思います。

体験における価値は、何をしたかということよりも、そこから自分はどう感じて、何を得たのか、つまりは人間の感情が存在していたはずで、文学や芸術がその多彩さを描写するように、人間の感情は社会からこうだと決められるものではなく、もっと繊細で多様なものであったはずです。

文化の発展は、価値と密接に結びついており、それぞれの場所で、それぞれの習慣と文化があり、文化の中にはそれぞれの価値が存在していたはずです。習慣の変容と共に、文化の変容もセットで存在し、社会構造が、変化しているのであれば、文化もそれに合わせて変化してゆくことが強いられるわけであり、この変化に追従できない文化はその内包していた価値ごと消えて行ってしまうという時代に差し掛かっているように思います。

『心は、単に受容器官であるだけではない。それは投影機でもあるのだ』というディビット・ヴィキンズの言葉があります※2。我々が価値の投影機であること、自分たちでこの世の中に価値を見出して、自分たちの文化を作っていくことは、意外と楽しいということが、あまり語られていないことです。

こどもが何か体験をして、それが手順通りに進む、写真映えするかどうかということよりも、それをすることによって何かを感じることがあることが大切であるように、大人であっても、自分たちで大事なものを見出して、それを育てる経験は、文化を作ることであり、楽しいことでもあると思うのです。少なくとも、自分たちの日々の必要や、望んでいるものを中心に文化を作ることができます。

テクノロジーが発達すればするほど、私たちは自分の頭で考える必要がなくなり、楽になる反面、自分たちで自分たちの暮らしを作り、価値を作ってゆくということから離れていくのではないかということも、留意して生きなければならないような時代が加速してゆくこと、その中でも文化は受け取るものだけであるのではなく、作り出せるものだという側面に光を当てる意義が強くなってくるのだと思います。

※1自立した民衆社会とは、自分は何を欲し、何を愛し、何を悲しむのかよく知っていて、そのことの上に成り立っている社会なのです。そういうことについて、自ら苦しみ考え、先輩・同輩のいうことなすことをよく見、よく聞き、それぞれ自得するのであって、そういうことに関して、お上や政府、学者や言論人から世話を焼いてもらう必要はないのです。むろんその世界には、いさかいも犯罪も悪徳も存在しますが、そういうものを含めて世界は自分のもの、仲間とともに自分が創ってゆくものなのです。伝統や習慣に助けられるからといって、その奴隷になるわけではなく、そういうものも活用して、おのれが生きることを自分で決定するのです。イヴァン・イリイチという思想家はそういう自律的な民衆世界が開発と経済成長によって滅ぼされてゆくことに、強い反感と憂慮を抱いていました。

渡辺京二『近代の呪い』平凡社新書、2013pp31-32

※2 デイビッド・ヴィキンズ『ニーズ・価値・心理-ヴィキンズ倫理学論文集-』大庭健・奥田太郎訳、勁草書房、p.199