パーマカルチャー

ゴキゲンなダウングレードを価値、真理、情緒の3つの面から考えてみる。

まず、価値について考えてみます。今、時代の価値や伝統の価値が問い直されている時代だと思います。いままで普通に享受していたものが、例えば、飲食店などだんだんと価格が上がってきて、閉業することがありました。ゆっくりと継続して続けてきた文化が、地方だと次の世代が継承できずに閉じることや、新築の家を一つ立てることも材料費の高沸によって難しくなってきたりしています。こういった、私たちが価値、伝統、文化だと思ったものが、持続できるのかできないのかという大きな波が来ているのが2026年の今だと思います。

次に、情緒を価値と対比してみます。価値は、他の人にとっても共有できるものであったと思いますが、もっと個人的な経験であると定義してみたいと思います。それは、私たちの中にある情緒や心が動くことは、自分だけの価値だとしてみましょう。それは、自分自身の原体験であり、自分の中で大切にしたい記憶は、他の人や時代が変わったとしても大事にされるべきものであるということは、変わりないと思います。それは、子供の時に感じたことであり、大人になってから人とのかかわりの中で形作ってきたものであり、そういったものを大切にしたいという思いがある生き方を自分は大切にしたいという思いがあります。また、自然との接点で、子供たちや、大人にそういった原体験を届けられるような形を模索しながら、僕自身も自然体験の講座や、ワークショップを行ってきました。

最後に、自然科学の真理というのは、価値判断や情緒と切り離されたものです。例えば、天動説が今まで信じられていましたが、それは地動説であったということが真実となっています。また、元素が私たちの体を構成していて、進化論が存在していて、何億年も前の海や生物の事を知ることができます。こういった自然科学の真理は真理とは何か、これまでの価値、情緒、に対してもう少し時間をかけて説明をして解像度を上げたいと思います。

一旦、自然科学とは「だれもが同じような道筋をたどると同じような結論に至る」という構造があるとしましょう。それは、また一方で、同じ道筋をたどったときに、「ほんとうにそうか」と思う自由があり、実際にそのことが違うとほかの人が同じ道筋をたどったときに結論付けられるのであれば、新しい事実が生まれます。

個人的な経験から話すと自然科学の分野だと、特に予算をかけて研究しても経済的な価値を生まないことも多く、ガイドの中で話されていることでも本当にそうかなと思うこともたくさんありました。代表的なものとして、富士山の宝永山は隆起によってできた古い地層のものだということでしたが、噴火というとても複雑な現象を紐解いてゆくと古い地層が噴火によって出てくるのは自然なことであるということが証明されて、説明の仕方がかわることが一番記憶に残っています。

つまり、真理にたいして問いを持つ自由があり、それを探究し続ける自由がある基盤の上に科学があります。これを反証可能性といい、宝永山に関する真理がかわったことは、反証可能性があるということを体験した一番大きな記憶です。

さて、ここに冒頭にあげた価値、情緒、真理の三つのちょうど接点にあるのが「自然」に対しての人々の語り方だなと僕は感じています。僕の主張としては、「これらをきちんと分けたほうが自然と人とが好い関係性を築くことができる」と思っています。

一つは、自然科学の真理としての自然の解像度が低いまま、里山や自然に戻るべきだという情緒的な言説に対して違和感を持ちます。それは、自然界が基本的に熱エネルギーの法則、つまり太陽光からのエネルギーがあって、その土地の生産性が決まるという大前提のルールに基づいた定量的な議論がされていないことがあると思っています。

それは、例えば「自然エネルギーがこれからの時代必要だ」という言説を信じて太陽光パネルがあれば、問題はすべて解決するという思考になりがちですが、面積当たりの生産性で行くと、屋根にパネルをつけた程度では、冷蔵庫やエアコンを動かすのがとても大変です。こういったことを、「技術的な性質のみに注目して、量の議論が欠ける」という風に言えます。つまり、これを一言でいうと「定性的な議論」は得意だけれども「定量的な議論」が苦手であると言えます。これは、半分の真理しか、語られていないと言えます。真理の全体に対して情緒が先行してしまっている言説だといえるでしょう。

太陽エネルギーの話で価値の議論を考えると、私たちが普通に享受してきたことが、そもそも価値として埋め込まれています。それは、「エアコンのスイッチを入れること、電気代以外のことを気にしなくてよい」という私たちの普通の習慣の中に、実は大変な価値があったのです。太陽光パネルを使って暮らそうとすると、この価値を解体しなくてはなりません。そこに「エアコンは使えないけれども、創意工夫して電力を自給することが価値」というライフスタイルになります。

この価値を実践しているのが、僕がパーマカルチャーのワークショップを通年させていただいていた循環ワークスです。これは、ある意味で暮らしのダウングレードといえるかもしれません。そこには、自然科学の真理はある種制限要因として存在しつつ、自分たちの情緒としては、自分たちが選んだ価値に満ち足りることが存在します。これは、一般でいえばエアコンがあることが価値であるということの軸から外れた生き方となります。

そして、また小さな自然と共に生きること、例えば畑を行うことや、鶏を飼うこと、コンポストを実践するは、消費財を得ることとは違います。それは、今までの消費社会のスタイルが「人間の時間に自然を合わせる」という形でデザインされてきました。思い出してほしいのは、夏や冬という季節の時間をエアコンというスイッチ一つで切り替えられることです。

一方で「自然の時間に人間が合わせる」ということは、夏が来たら営業をしなくて済むように自分たちのライフスタイルを組むというぐらい大きな転換が必要であり、それは、コンポスト、ソーラーパネル、畑、古民家、森、山など自然側に合わせる要素が増えれば増えるほど、どんどんそちら側の時間に人間が入ってゆくプロセルが必要になってきます。それは、端的に言って、私たちが忙しい中でさらに自由にできる時間が減るということです。

そして、自然自体も近代以降文明が「人間の時間に自然が合わせる」システムを作ってきた複雑な帰結として、気候変動やスーパーエルニーニョなどこれまでの生活文化の伝統では未知のことが起きてくる時代となりました。つまり、河川の氾濫面積が増える、水をまかなくても栽培できる期間が減る、旱魃や洪水が起きるなど、自然に対して人間が取りうる選択肢が少なくなってしまっている時代です。

こういう時代は、暮らしを一つのシステムに依存せず、いろいろな形でバックアップを持てることができることも、また一つの価値になります。しかし、正直そういったレジリエンスを作ることだけが、共通の価値だと強く言えるほど核心は持てません。そして、レジリエンスという概念も、地域一つ一つ個別適応され、その地域固有の文化を築いてゆくものであると思っています。そしてそれは、一人一人が自分自身にとっての良き生とは何かという問いと関連しているものであるのではないでしょうか。

これまで私たちが大切にしてきた価値が崩れる時代、自然科学の真理はむしろ情緒的な希望というよりも制限要因として存在します。その制限の中で、今までの価値観と違った自分だけの価値をどのように見出して現実に作るのかという問いを問うことこそが、自分だけのゴキゲンな暮らしを手に入れる秘訣かもしれません。

自然科学の真理、情緒、価値が交わるところを見つけることが、自然の時間と人間の時間が交わって持続するポイントであり、人と自然とがともに暮らすことのできる糸口なのではないかなと感じます。