自然体験

私たちの時代の宿題と、私たちと共に生きてきた自然

身近で遊べる自然がなくなってきた???

草原や里山や田んぼ、身近な気軽に遊べる自然が減ってきたように感じる。子供のころは、近くの川にスジエビを取りに行って、家の水槽に入れて、それがふわふわと水の中を泳ぐのを飽きもせずにずっとみていて、山に散歩にいって、祖母と茶の実やシイの実を取りにいったり、滝のそばにサワガニを探しに行ったりした原体験がある世代と地方で育ちました。

友人と話していても、自分と違った遊び方をしていた友人も多い。田んぼのゲンゴロウがとか、ホウネンエビをとったこと、タガメなど捕まえ、またザトウムシなどの虫などは、すごく身近にいたという経験をしていたと。

その原体験から、私自身も、伊豆のアラカシ、スダジイ、モミ、竹林の大木がある里山で自然体験プログラムを作っていたが、正直に言って気軽に遊べない。自分が子供だった頃の1990年代と何が変化したかというと、シカの増加がまず一番にあげられる。特に、その伊豆の森では、ダニの影響がものすごくつよくなり、ガイド付きで、イベントでという形で行っていたが、正直子供たちが勝手に森に行って、勝手に遊ぶのが一番いいなという思いはあります。

一方で、今子育てをしている30代、40代の世代の友人と話していると、東京のベットタウンのようなところで育った経験の親だとそもそも、自然体験の原体験がないということを話して、そういう感覚なのだと驚きました。自然保護やSDGsということが言われていて、身近に自然というものを感じる人が多いうえで、そもそも蜂とバトルした原体験とか、森や鳥についての原体験がないというのは、どのような態度を自然にとったらいいのか、考える土台がなかなかないのではないかなと思い、いまの視点からの景色を素描してみようかと思います。

保護と利用、自然と文化を超えて

自然に対しての見たかを大雑把に言ってしまえば、関わる(変えない、変える)、関わらないという態度を取れる。一方で、自然自体も、変わってゆく。自然を保護/利用の2項対立で考えられることが多く、それが、善/悪の構造で考えられることが多いが、まずこれを解体したい。使うフレームワークとしては、滝/尾崎の述べる以下の4つがこのフレームワークから出るのには、わかりやすいと思う。

「オーバーユース、アンダーユース、気候変動、人間が持ち込んだ化学物質、外来生物」

この4つだ(滝久智・尾崎研一2020)。アンダーユースという言葉が直感的に理解しにくいので、説明しておくと、例えば先ほどに例を挙げた、シカの増加と、植林地の杉ヒノキ林が放置されていることなどだ。自然は、そもそもほっといたらいいのでは?勝手にバランスが取れるのでは?と思われるかもしれないが、そもそもこの自然というのも、南極などでない限り、わたしたちと共に生きてきた自然であるのだ。

その例は、日本を離れてオーストラリアに目を向けるとわかりやすい。今、山火事の報道でにぎわっているオーストラリアだが、意外にも思われるかもしれないが、そこの山火事を防ぐ管理は、野に火を放つことだ。森が焼けるような火事がホットファイヤと呼ばれる一方、日本でもススキの原を焼くようないわゆる火入れをすることが、アボリジニ入植以降の自然で2万年もの間、行われてきた。そして、また以外にも思われるかもしれないが、火入れをすることによって、土地の生産性は上がり、持続する文化を作ってきたのだ(Pascoe2014)。

しかし、それらの居住区や伝統、トーテムの神話と繋がって連綿と繋がってきたものが、土地の収奪や強制移住によって失われてしまった今、今まで焼けなかったような森も焼けるような事態になってしまった。人間が使い続けなかった、暮らし続けなかったことによって、自然が変化しようとしている。そして、その変化は2万年かけて作られた生態系が壊れることであり、またそれは巨視的にとらえたら、何万年かけて新しい自然ができるプロセスでは、確かにある。しかし、ここで議論となるのは、「私たちは、人間と共に生きてきた自然を守りたいのか、それ以前の自然を守りたいのか」という点である。火事が深刻になり、生物だけではなく、人間の暮らしが危機になるうえで、火入れをするプロセスで防除している現状は、このような議論から生まれてきた。

木と共に生きてきたことの裏表

さて、日本の自然こそ、今、オーバーユースからの保護というよりも、アンダーユースということが問題になっている。「日本人は木と共に生きていた」という言説があるが、つまりそれだけ木を切ってきた、自然を使ってきた歴史がある。それは、私たちが昔の日本人はエコだというイメージで緑豊かな共生という牧歌的なイメージよりも過酷で苛烈な形で行われていた。

特に中世、平安時代には、原生林が失われてゆくプロセスがある。建造物、製鉄、塩、燃料、炭、船、家財と木を使う場所はたくさんある。どれぐらい木を切っていたのか、森が失われていたのかというと、法律に木を切ったら手を切るという文章が書かれ、都市の遠景にある山は、遷移の初期に生えてくる松や草原ばかりというぐらいまで徹底的に切っていた。それは土中の窒素がどれだけ失われているかということでもわかることでもあり、昔の浮世絵をみても、禿山に松が生えているような写真もある。南方熊楠はエコロジーという言葉を出して、明治に神社合祀の反対運動を、木を守るために行ったことや、戦争中にどんどん木を使ったことなど、歴史を丁寧に紐解いてゆけば、日本はそれほど、木を切ること、野生動物と共生するに対して進んでいた、という私たちのイメージと違うことが散見されるはずだ。

一方で、動物はどうだっただろうか。オオカミの存在がまだあり、庶民はシカを追い払う手段、銃などはもちろん簡単に保有できなかった。それが解禁されたのは、明治になってからであり、娯楽がなかった田舎には、猟という娯楽ができた。片麻岩という簡単に割れる岩がある地方は、シシ垣という構造物を作るぐらい、それぐらい動物との戦いがあった時代から、オオカミは絶滅し、シカは保護される時代になった。それは、農業がやりやすく、山々の植物にとってもシカの食害が支配的なほど影響力を持つ時代ではなかった。

その時代から、戦争がはじまり焼け野原、伐採も進む後退の流れが起きる地域と、再生してきた木々が残る地域が分かれただろう。その後、始まったのが、今に至るスギ、ヒノキの植林だ。この時は、長らく平野で草地として使ってきた場所にもスギ、ヒノキを植え環境が変わっていった。そして、木材の値崩れが起こり、スギ、ヒノキが間伐や枝打ちなどの管理をされなくなった。また同時に精神的な自然との繋がり、例えば、山岳信仰や富士講、山伏などの伝統もだんだんと廃れてゆき、神社仏閣の立て直しも、アラスカの木々が使われるようなこととなってゆく。経済的な価値、精神的なよりどころとしての自然がだんだんと廃れてゆき、山に行く、地域の自然に責任を持つ意味が失われる過程にあった。

戦後一生懸命木を植えてきたが、一方で、開発の圧力が多くかかる時代となる。ダムがあちこちに建設され、道ができ、ゴルフ場やスキー場、森の中を車で走ることなど、自然の中に人間が入りすぎて失われるものも、確かに多かった。農薬の問題も多く取り上げられ「自然保護」というオーバーユースに対しての対策を講じなければならない時代が来る。外来種の問題も発生して、在来の自然を守ろうという、多様な守り方が増えてゆく。だんだんと生活環境も変わっており、茅葺の屋根が減ることや、薪炭林はだんだんと年老いてゆくもののその変化がマイルドな時代が過ぎてゆく。

アンダーユースの時代と身近な自然

そもそも、植林し人間が森を作ること自体が、悪いことかというと、一概にもそうは言えない。植林地が高齢化してくると、だんだんと木が枯れ、自然木が入ってくる。また、枯死木、立ち枯れ木を好む希少種もいる。人工林の高齢化が進んで、生物多様性に配慮された施業が行われれば、決してスギ、ヒノキ林をつくることが、わたしたちと共に生きてきた自然を破壊することではないのだ。林床は緑が戻ってゆき、また皆伐した場所は一時的に草原になり、植林地が開かれた後の草原に来る植物や虫も多く、今は草原のような場所が少なくなり、そういった昆虫たちが逃避する場所であった。

植林と森林の利用自体は平安時代以降行われてきて、オーバーユースが問題となっていたのと対象的に、現在はアンダーユースが問題となっている。特に間伐が遅れている高密度森林が、問題となっている。

「間伐が遅れると林床に生育する植物が減少し、林相は単純なものになり下層植生に依存していた昆虫類が減少する。また植生でおおわれていない林内土壌では粗孔隙率の上昇や皮膜の形成が観察されている。さらに土壌の表面は雨で流失しやすくなり浸食をうける。一方林床に供給される落ち葉は植栽樹種の物で占められ単純化する。(※大澤2020)

住居、生活習慣からもナラやクヌギの薪炭林は放置され、30年の伐期がある、もしくは途中で切って森が更新されなくなった。なかなか木が貴重で切ることができなかった時代、人々は死んでしまって枯れた木を燃料として使いたかっただろう。なぜなら、塩を焚く、暖を取る、また鉄を作ることや、日々の料理など、薪があればすることがいくらでもあるからだ。そういった材も、山の道や里山であれば、運び出して使い道をいくらでも見出せただろう。しかし、あからさまに生活習慣が変わり、だんだんとアンダーユースの問題が顕在化する。

自然の劣化の氷山の出てる部分

「わたしたちと共に生きてきた自然」で失われているのは、農薬の影響がない田んぼで生きてきた自然、また草原を植林地にしてしまったことによって失われていった鳥類、昆虫、またシカが食べてしまってなくなっていった自然もある。これらは、現状維持を行う保護の努力が足りなかったのではなく、私たちが草原になるように使い続けなかったから失われてしまった自然(木々が生えてきて、自然の遷移がすすまないように)田んぼをつづけなかったから失われてしまった自然である。子供と遊びたいから草原を探そうと思っても、草原なんて簡単に見つからない。島か、カルスト台地か、火入れをして遷移を止めている場所ぐらいしか、草原が無く、草原だった場所は遷移が進んでいるか、植林地などになってしまっている。

オーストラリアでは、それらの問題は「火事」という形で発生したが、日本では「昆虫、鳥類、草花の喪失」と「表土の流出」という形で現れた。植林地の間伐ができないこと、シカの増加、ナラ枯れ、マツ枯れの問題が発生する。ナラ枯れは1930年にも報告されているが、以前と何が変わったのかというと枯死木の利用の減少だ。炭焼きとして山の中に入っていて燃料が大量に必要な時には、枯れ木は重宝しただろう。また間伐した材も、木々が貴重な時は搬出して利用する手段がいくらでもあったが、使われなくなった枯れ木は虫たちが増える恰好の場所となり、増えすぎた虫は成木にも大きな影響を及ぼすようになっていった。

また、枯れ木が増えることによって、キツツキの仲間にとっては、巣をつくることにとって、都合がいいだろうという風に思われるかもしれないが、エコロジカルトラップという概念がある。本来はスダジイなどのより太い広葉樹に巣作りをしており、その木々とマツの枯れ木での子育ての成功率を比べたところ、成功率の数値が低く出るという結果があるそうだ。

私たちが手渡せる自然と土壌の時間

間伐が遅れている高密度森林が土壌を流出することをみたが、林床の地上50センチに下層の植物、もしくは枯れ葉などのリターと呼ばれる層がないと、表土が削れる。石柱という柔らかい表土が削れて、石がまるで土の柱の上に乗っかっているような光景を目にする。その周囲の木々は、土が削られて根が浮き出ていることもあり、そしてやがて木は倒れてしまう。本来、木が倒れると森の中で生態系として有利な場所が開ける。これをギャップといい、次の世代の植物や明るい場所を好む植物が生えるきっかけになる場所だ。

とはいえ、草原が形成されること、高齢化した植林地の木が失われることによって、森が更新されることは生態系にも良い影響があるはずである。しかし、いまなぜこれが問題となっているかというと、森が更新されず、草原性の場所がシカの食害によって失われているからだ。普段森を案内するときに、オオセンチコガネというフンコロガシの仲間や、毒を持つ蝶、アサギマダラ、また毒の植物、マムシグサという植物や、シキミという赤い実がなる植物については話すことが多く、確かに広葉樹の実生よりも、針葉樹の実生はアカマツやモミなどのよく目にする。

だが、一方でオミナエシ、ヤナギラン、広葉樹の稚樹などは、思っている以上に少なく、蝶もギフ蝶や草原にいるようなものを見かけることは少なくなった。毒がない植物は少なくなり、いつも自然解説の対象となってよく見るものは、50年前からそこにあった自然というよりも、ここ30年で形成されてきた、シカと共に生きてきた自然であったのだということに気が付いて、愕然とした。

特に、今植えた木々がなくなったとしても、自然は再生する力があるから、勝手に回復してゆくだろうという考え方も確かに一つはある。冒頭で述べた自然に対する態度だ。それは、何年後になるのだろうか。表土が形成される速度は、熱帯の森林では早いが、温帯では、100年に1センチ、寒帯ではもっと遅いといわれている。

一概に土砂崩れと比較することはできないが、イメージとして土が一切なくなった状態から自然が再生した例を考えれば、わかりやすいかもしれない。そんな例などあるのかと思うかもしれないが、富士山麓の青木ヶ原樹海がそれである。864年の噴火でできた大室山の自然は、1000年以上の時間をかけて、溶岩台地から復活した。1000年あれば、たくさんの土ができそうだと、上の理論でゆけば、10センチはあるのではないかと思うかもしれないが、実際は3センチから5センチ程度だ。それは、森が形成されてから生産される土の量であって、裸地になって表土が失われてからではない。表土が失われてしまっては、少なくとも近い世代に手渡せる未来はそれがない自然となってしまう。

子供たちに手渡せる未来への宿題

シカではなく、キツツキやクマ、フクロウ、ムササビなどのためには、やはり広葉樹の大木がある森が存在することは、どうしても必要であるだろうし、私たちが普段暮らしている水が利用できるためには、木材利用以外の森があることが豊かさにつながってゆく。また、雪崩や土砂崩れ、折れた木々が流れて川がせき止められて洪水が起こるリスクなど、今後台風が大きくなり、旱魃と火事のオーストラリアと対象的に、降雨量の増加と表土の流出という形で気候変動の影響が、より加速してゆくだろう日本にとって、豊かな森があるとしたら、それは水と防災という豊かさの上で、希望になることだと思う。

また、私たちは近代の精神の中に生きていて、カスカの人々のようなアニミズムの現実には生きておらず(山口2019)、自然との精神的な繋がりが薄くなってしまっているが、それは欧米諸国のナチュラルリズム(デスコラ2020)よりも、普段の暮らしの文化の中に、散らばっていて、人間のためになる豊かさという以外の橋を、自然とのかかわりの中に築けるのではなないだろうか。日本語の色は、鈍い紫が、鳩羽色というキジバトの羽の色であることや、オミナエシというシカに食べられ数を減らす黄色い花の名前がそのまま色の名前になっている文化を生きている。日本庭園にある、ししおどしは、シカやイノシシが近くに暮らしていた時代の名残でもあったりする。それは、自然との距離がそれでも近く、観察の中から言葉が生まれてきたのだと思う。精神的な繋がりの橋を、今新たにかけられるのかという創造的な問いが、私たちを待っていると前向きに捉えることもできるのだ。

インスタ映えできるように切り取られる自然や、キャンプブームや、地方、アドベンチャーツーリズムなど、消費としての自然だけを注目するのではなく、森の更新や広葉樹の森の復興につながる形や、私たちの日常や暮らしや日々の言葉につながる形で関係性を取り戻すこと、またその主体となる自分を含めた人と自然環境との境界に立って生きている人々が、世間とちゃんと渡り合って暮らしてゆくには、どうしたらいいのかその問いの渦中にいる。身近な気軽な自然を失わないこと、またそういうものを積極的に作ってゆくこと、山は表土や広葉樹などの生命の基盤が削られずに豊かであること、また、そういったものを次の世代に残しつつ、その価値伝えること。そういったことが、我々の世代の自然環境における宿題のように思う。

私たちの宿題だと思ってくれる人へ。

今回この文章を書くにあたって、広葉樹の森づくりについて、学ぼうと思って本を読んでいたり、その寄り道で自然と人の暮らしの境界に立っているひとが話している動画も観ていましたが、森林や生態系、動物研究者、動物園で働いている人、多種多様なガイド、パーマカルチャーに取り組む人、どういう人が語っているのを見ていても、結論や願いは、そんなに大きく違っていないように感じました。自然ともっと関わること、気軽な入り口を作ること、行動すること。宿題が何かというのは、もう痛いほど知っているものの、一方で、周りを見渡しても、そういうことに真剣に取り組める仲間が多くいるかというと、そうではないのが現実です。

地域で「自然体験」を、ボランティアや地域の取り組みとして担ってきた世代が、だんだんと高齢化するものの、我々の世代は本職でエコツーリズムを、子供を養えるような収入を得られるほど従事できる産業として成長している場所は限られており、地域振興の文脈ではそれよりもベーシックヒューマンニーズに基づいた方が良いのではという提言(芝崎2019)もされているぐらいの現状、こういった宿題を担える主体がいないのは、理解できることだと思います。

ネイチャーガイドのわれわれが、自分の暮らしを成り立たせるため、世間と渡り合いながらこの宿題に取り組むことに限界があるのは、痛感しています。安全安心を確保しながら、専門性があり、エンターテインメントとしてちゃんと提供できるという「編集する力」こそ、私たちができるところだと思うのです。取り組める主体がいない一方で、違う分野からでも自然の中で遊んだ原体験があって、それを良いものであるという感覚があり、次の世代に手渡したいという思いからこの課題が私たちの宿題だなと感じた人と、小さなアクションでも、一緒に取り組めることを見つけていきたいと切に願っています。

出典

参考文献

滝久智・尾崎研一「森林と昆虫」滝久智・尾崎研一編『森林と昆虫(森林科学シリーズ11)』共立出版、2020年

山口未花子『ヘラジカの贈り物-北方狩猟民カスカと動物の自然誌』春風社、2014

フィリップデスコラ『自然と文化を超えて』小林徹訳、水声社、2020年

Pascoe, Bruce, Dark Emu Black Seeds: Agriculture or Accident? , Magabara Books, 2014.

柴谷茂光「保護地域を活用した地域振興や山村文化保全の可能性」蛯原 一平 編・ 齋藤 暖生 編・ 生方 史数 編『森林と文化-森と共に生きる民俗知のゆくえ(森林と文化12)』共立出版、2019年

引用

大澤正嗣「林業活動の低下による影響」滝久智・尾崎研一編『森林と昆虫(森林科学シリーズ11)』共立出版、2020年、p.67