パーマカルチャー

科学と自然環境と表現すること

森を歩いていると、人々は良く自然を直接観察していたのだと思わされる。

ムチゴケというコケがいるが、「Y」のコケを探すと見つかる。蘚類、苔類という区分がコケにはあり、苔寺にあって目にするようなスギゴケは蘚類。一方で蛇苔とよばれるような蛇のうろこのようなコケは、苔類でありムチゴケもこちらに入る。蘚類と比べて、繊細というよりもてらてらした感じで、Yのうらにこの「鞭」の由来である紐のようなものをつけている。ここから名前をとることができるのは、よっぽど連想がすすんだからだろう。

名づけというのは、科学的というよりかは、ユーモアと表現することの一つで、その人々の想像力の遊びの中で構築された世界に、生きている。サルノコシカケというキノコも、海外の人にあのキノコをあなたが学者であったらなんと名前を付けるか聞いても、「モンキーチェアー」だと答える人は、いまだいない。実際に座っているところを、科学的に見たというよりも、自分がこれになんと名前を付けるか実際に考えてみると、命名者の観察とユーモアに満ち溢れた言語の自然環境の中に暮らしているのだという感動がある。

観察の対象は、どうしても身近にあるものに限られる傾向にある。それは、まなざしている時間が短ければ短いほど、理解はどうしても浅くなる。可処分所得よりも、可処分時間を奪い合うということが言われている時代を生きており、自然やものをまじまじとみることが、減っている感覚はつよい。自然の中でずっと生きてきた人の思考と身体に付随する経験のあるまなざしで森をみることができたら、それは全く違った世界が見えるのだろうと思う。森の中を歩いていて、これはなんだろうという疑問と、なぜこれがこうなっているのだろう?と感じることは、意識に上ること、上らないこと両方存在する。

科学は、これはなんであるかということではなく、これはなぜこうなっているのかということに説明をつける道具であり、それは一つの仮説をだれもが同じ理解の道をたどれば、同じ場所にゆけるというすばらしさがある。言ってみれば、なぜだろうと思うことの地図を作ることともいえるかもしれない。

表現において、森や洞窟をファンタジーや架空の世界、文章や絵で表現するときも科学的な正確さと共に、証明されていないものに対する感覚的な気づきこそ大切であると思う。サルノコシカケやムチゴケなどの命名者は、十分にそれを観察して個人的な繋がりの形に名前をあてたのだと思う。

もの一つですら科学的に理解すること、また世界をすべて理解するには、一人の人間にとっては時間が足りなすぎるうえに、言葉はモノそれ自体が持つ情報量に対して、とても限られたことしか記述することができない。名前は、どちらかというとその存在を理解するうえでの目印として建てた標であり、名前だけ知ろうとすることよりも、その存在を表現しようという試みの方が、情報量が多くなるだろう。

粘菌は胞子体と菌糸体をもつが、どちらが本質であるか、我々は知らない。菌類にとって、きのことして我々が認識するものよりも、もしかしたら菌糸の方が本質で重要であり、木々にとって枝葉より根の方が本質であるかもしれず、動物も長い時間をかけて変わりゆくものであり、変容を含めた観察こそが、名前や文字で切り取られたものを知ることよりも本質に近いものであると思う。

自然環境は、もはや多くの人にとって日々観察する対象ではなく、そういった「変容する全体性を含む存在」としてよりかは、一つのエレメントや要素として、日々のわたしたちの表現に現れるものであり、危ないものとしてのエレメントが取り出されたクマの情報が流れるが、クマとイノシシとシカとキツネとタヌキとイタチの行動はどう違うのか、人間に対しての距離感や警戒心、どれがどれだけ森にたくさんいて、というクマに対しての直接の経験がなくとも「哺乳類」という中での対比や、感覚的な理解やほかの動物と接した経験からの類推などの情報のネットワークの中での理解も、一面だけ切り出して扱ってしまうとできない。

自然の中の存在は、すべて相互関係のネットワークに存在し、また変化してゆくものである。そういったものにポイントポイントで名前や科学的な知識として、標がたてられ、それはむしろ表現を阻害するものではなく、表現を補完するものであると思う。わたしたちは、日々、移動する範囲が広くなってきたものの、その先で、先んじて与えられた情報だけ消費しているような旅も多く、移動する範囲が広くなったゆえ、観察しているものの範囲が広くなったように感じているが、おそらく、身近な公園の野生にも、たくさん知らないことは多くある。作物を育ててみたり、あそんだり、繰り返し訪れたりして自然と土地や場所に関わりを持つことによってはじめて、この世界の一つの在り方が、初めてその人にとっての真実として世界から明かされるのだと思う。