「持続可能性に先立つ自然の見かた」ーUNITEDブログ34回
持続可能という言葉が、広く知られるようになり、SDGsやネイチャーポジティブという言葉もはやってきた。とはいえこれらの言葉は「ぼくもバッジ付けて、そういう商品かうようにします。」という素直な態度か「SDGsってよく言うけど」という斜めの態度、どっちにしようかなという反応の仕方に困る人もおおかったのではないだろうか。この言葉に直面すると、いわゆる、「いいこと」に対する反応の仕方の態度決定の問の前に立たされるわけだ。
一方で、SDGsの言葉について知っているほど、私たちは、自然について知らない。SDGsという言葉を聞いたことがあるか、地球が始まったのは何億年前か聞いたことがあるか、どちらが即答できる人が多いか試してみたいものだ。46億年間、地球は太陽からのエネルギーを受け続けてきた。それは、強烈なエネルギーだが、地球には地磁気があり、私たち生物が生きていけるように守ってくれている。オーロラとしてそれを見るぐらいだ。そのエネルギー、熱と光を使って、今まで生物は多くの資源を地球に蓄えてきた。菌類が誕生する前までの炭素を石炭として、菌類が誕生してから、有機物の循環が加速し、土壌としても私たちは、その恵みを使うことができている。
ものすごくわかりやすい持続可能性の言葉の例としては、入ってくるエネルギーよりも多くのエネルギーを使ってしまうと持続可能性ではなくて枯渇する。当たり前の話だ。水が一番わかりやすい。使う量が蓄えられている量を超えると枯渇する。これは、大規模農業で土壌の喪失が懸念されているが、土壌も同じだ。使い捨てていたらいつかなくなる。また、森や生物も同じだ。すべて切り倒し、食べてしまったら、こちらもなくなる。次に、エネルギーはどうだろう。自然に存在するエネルギーの量は、そもそもは「太陽から入ってくるエネルギー」と「46億年未満の蓄えてきた時間」だ。これは、まずは私たちの暮らしを成り立たせているエネルギーが石油、石炭などの化石燃料だけの世界と仮定した話だ。
持続可能性をシステム思考の中だけで考えると、以上の「蓄えられてきた量と増える量」と「使う量」と、点がものすごく大切になる。一方で、現実は、こんなに定量的な世界観で動いているものは一切ない。エネルギーにおいても、太陽だけではなく、原子力発電が存在し、地球が地磁気ではじいてくれている放射能が地上に存在するという別次元の問題が発生している。また、地球に蓄えられていた炭素が空気中に放出されると気候危機の問トワークの中に存在している。
また、私たちの人間の存在も複雑な社会や国家というものの中にある。すべての人に等しくエネルギーや食糧、水が届かず暮らしやコミュティが持続不可能になるのではなく、それは不平等に地球上に降り注ぐ。国家間の中でも不平等であるし、一国家の中でも不平
不平等も存在する。人間がこれらの事を問題として取り組むのであれば、定量的なシステムの収支よりも、その不平等の解消を対象とすることは、頷けることだろう。だからこそ、SDGsの中に、自然や海の生命のことだけではなく、まずは貧困や平等や報道、法のことが多く盛り込まれているゆえんだ。
一方で、そもそもの自然について、多くのことを知らない。ごぼうがとても素敵なムラサキ色のアザミのような花を咲かせることをしらなくても、ごぼうは変わらずおいしいし、サトイモの葉っぱは、トトロが傘に持っている葉っぱのような形をした大きな葉っぱであるということをみたことが無くても、また豚汁の豚が何歳で出荷されているのか、おそらく多くのことを知らなくても、日々の暮らしは滞りなく回ってゆく。
いわゆる「いいこと」をみんなが間違っていないという形で実行するのは、あんまり楽しくなくても、自然の見方を知ることは、僕は楽しいことだと思う。それは、その過程で世界の見え方が変わってゆく経験をすることだってあり、それは人生を深いものにする。思っていた以上に森の中や街の中でも情報量が多い、小さな森のような自然を見つけることができるようになるかもしれない。それが、どのように動いているのかを理解することができれば、それを模して小さな森や自然を再現すること、自分がここに手を加えたらどうなるのだろうという介入と観察から、より自然のことを学ぶことだってできる。そのような自然に対しての観察と模倣を日本人はとても得意としてきて、数々の庭や畑を通して、自然との関わりを持つ場を様々な形で作ってきた。
人間や噴火などの環境の介入にたいして、自然環境は適切に反応する。火入れをすれば、そこは草地が保たれ、耕された土壌やむき出しの土壌など、条件の整った場所に、適した植物が生え、昆虫が来る。いわゆるいいことや正解のあるものを社会的に作ってきた一方で、介入の主体をひきうけることと、その結果に関しては、正解をだれも教えてくれない。それは、世界の始まりから、人間の存在の終わりと行く先について神話が存在し、神話から現前の風景が作られ、それが日々の生産活動と社会的な不平等を説明する文化的な伝統の中に存在していた時代をもはや私たちは生きていない。
長い歴史のなかで、社会的な不平等をどうするのかという問いと、自然環境に対しての介入に対しての何が正しいあり方であるのかという問いの結果を、自らの責任で引き受ける選択を、今の私たちが価値だと思っている基本的な人権や自由や信頼などの今の社会基盤をつくる上で行ってきて、それ以前にもどることは、もうすでにできないのだろう。
一方で、それ以前の文化やその名残の自然環境は、まだ様々な形で散らばった形で文化を学ぶこと、自然を学ぶことによって、取り戻すことができる範囲に存在する時代を生きている。前の時代の人たちがどう生きたのか、またどう自然環境と関わってきたのか、どのような倫理観を作り、何と何が抜き差しならない問題として相克しており、どういう選択をしてきて、どう生きたのかということを、土地や植生からも学ぶことができる。そしてそれは、今では自分の国だけではなく、海外の人と自然のかかわりも、本を手に取れば、知ることができる時代でもある。
持続可能性に先立つ自然の見かたは、人と人の間の分配と不平等の事の問題に入る前に、まず私たちの暮らしを成り立たせている水や空気、食べ物や土、森のシステムについてまず知ることが初めにあり、その後私たちの暮らしや社会の問題、それらが複雑に絡み合っている中で行動してゆくことの道筋を見つける順序であるのではないかと思う。