パーマカルチャー

パーマカルチャーの思考の初歩にして真髄。Observationと-Problem is Solution- UNITEDブログ第35回

今年度始まったツキイチの勉強会では、週末に自分の土地の畑に行き、農業をしている人、自分の農地、複数の農地にコミュニティガーデンとして関わっている人達が来る。パーマカルチャーは、実践していたら、学ぶ必要がないのでは?と思うかもしれないが「観察」という一点だけとっても、実際に活動している人が学ぶことによって、力づけられることは多くあると、講座を通じて感じた。

パーマカルチャーは、実践の農法のハウツーを教えるというよりも、思考法やモノの見かたを身に着けてそれを各文脈に応用するという形の学びの側面が強い。プリンプル(原理原則)の一つに、「観察して関連付ける」ということがある。そもそも、自分の頭の中で描いていることが先立ち、それを現実に行い、トマトやナスなどの収穫を得ようという形で私たちはどうしても物事をはじめがちだと思う。

そしてそれが、例えば虫に葉っぱを食べられてしまうことや、実がなっても小さく、うまくいかなかったら、それが問題だとして解決策を探りがちである。そして、その疑問にピンポイントで答えてくれる農薬や肥料、はたまた「この液体をかけると解決する」というような解決策を探しがちだ。これは、畑でなくとも、私たちの社会に散見され、特に「この問題には、これ」と訴えかけてくる、日々の消費社会の広告もそうだ。もしかしたら、私たちの日々の思考と行動のくせのようになってしまっているのかもしれない。

ここで、注目すべきは「自分の頭の中の事」が先立っていて「観察」が先立っていないということだ。ビル・モリソンの例えで有名な言葉として、「害虫がいるのが問題ではなくそれをたべる鶏がいないことが問題なのだ」という言葉から、「問題こそが解決策だ-Problem is solution」ということが言われている。これは、思考法として私たちの直接的な解決策を探してしまうくせから脱する道筋として、「システム思考」という名まえで呼ばれている。

 子供をみていると、人間は自分の頭の中のことが現実に投影されていることを、とてもよく教えてくれる。自分のやりたいことをやろうとして、本当にそれがうまくいくかわからなくてもそうなるようにやってしまい、失敗すると泣いてしまう。大人である自分たちから見て「それは、うまくいかないだろう」という場合に直面しても、彼らは自分の考えていることやアイデアに夢中だ。子供と大人の違いは、理屈をつけることができるようになり、泣かなくなっただけで、自分の頭の中のものを現実に投影してしまうという本質は、変わらないと意識することは、私たちをより注意深くさせてくれる。

 パーマカルチャーそれ自体も同じで、派手なイメージ、きれいな側面が先行している部分が多くある。デザインをすることやDIY、手をかけなくてもたくさんの収穫物がとれて、講演や執筆、アクティビティストとして活動しているイメージだ。あまり知られていないが、コンセプトを作って実践してきたデイビッド・ホルムグレンは、こういったイメージを一つ一つ丁寧に、力強く論じて否定してきた。

『レトロサボービア』の中で、奥さんのスーについて特に女性のアクティビィストから「なぜ彼女は立派な活動、つまり講演や書籍を書くこと、教えることをしないで、庭師事ばかりしているのか」と問われた事にたいして、じつはその実践は、メリオドラという拠点を訪れる人との交流を通して何千人もの若者を力づけてきたこと、その日々の実践は、自分自身の重要な情報源になっていたことを書いている。※注1

また、その視点を男女の傾向として「プロジェクトベース」の仕事と、「日常の習慣の仕事」に分けて考えている。パーマカルチャーデザインというと、デザインやDIYなどの大きなプロジェクトを行うことに目が行きがちだが、一度完成するとそれを日々維持していくことに時間を割く割合の方が多くなり、日々の日常の家事のようなシンプルなライフスタイルを送ることが、エコロジカルな現実を作ることに力を与えることであると述べている。

パーマカルチャーの、もう一つの誤解される側面は、たくさん働かなくても、森が勝手に収量を増やしてくれるまるで魔法の農法としての万能のイメージがある。しかし、そもそも「労働集約型ではなく、情報集約型」と言われているように、楽をしてうまくいくようなものではなく、少なくとも、有用な情報はたくさん集めなければならない。そして、有機農業や自然農について知ること以前に、そもそも植物や自然界はどうやって動いているのかという、慣行農法を通して科学が積み上げてきた知識と科学はベースに必要になる。その最適解をデザインの中で配置させてゆく作業を行うのが、パーマカルチャーが扱う食料生産だと理解している。

 

観察という観点から言えば先人の積み上げてきた「知識」は、多くの時間を使って、ほかの人が観察してくれたものを、だれにでも同じような道順をたどれば、同じ結論にたどりつくように学ぶことができるという形で、民主的に開かれているのが科学だ。さらに言えば、それを複数の視点から観察するという「批評」のプロセスに耐えたものが、歴史を超えて今残っている。自然界の大きな原理原則、植物の遷移や化学的な物質の交換の基本など中学、高校で行うことは何度やり直しても価値があることだと思う。

そのうえで、自分自身での実践と観察をすること、知識は参照とし、疑問がわいたときに、自分と同じ疑問を持った人が過去にいないかあたるために使うことによって、その時が持つ自然の価値を最大限引き出すと同時に、これまでの人類の遺産の価値を引き出すことにもつながるのだと思う。

 道具があると使いたくなる、知識をつけるとやってみたくなるのが人間だが、畑をはじめよう、こういうものを作ろうということから入る前に、私の暮らしはどのように成り立っていて、何を必要としているのか、これを作ることでどういうニーズがかなうのかということを、問い直すことは、とても大切だ。

そもそも、野菜を料理する習慣や時間があるのか、どのようなものがどれぐらい必要かということを抜きに、畑を初めてしまうことはよく耳にする。そもそも私たちが住んでいる国は、野菜がなくて飢えるということよりも、食品の大量廃棄が大きな社会問題となっており、作物を作っている人も、B品まで無駄なく市場にでて売れるというよりも、取れすぎて困り、なんとかして加工してロスを少なくしたいという文脈にある。自分の時間やお金交通や草刈りなどで様々な形のエネルギーを投入して作ったものが無駄になるということは、避けたい。

 目的は、自然環境の恵みと価値を引き出せる形で次の世代に手渡せることであり、自分を含めた家族やコミュティの人々の暮らしが豊かになり、平等で公正な社会を作るような倫理的な暮らしを持続可能な形で、自分自身が現実に実践してゆく道筋を見つけるあり方を探すことだ。そこまで詳しく言語化された目的に共感できでなくとも、パーマカルチャーの倫理、アースケア、ピープルケア、フェアシェアを思い出すことは、どのような実践を行う上でも立ち返る指針になるという点でとても大切だ。

 すでに実践している人にとって、「観察」と「問題こそが解決だ」ということが価値を持つのは、ここにある。そもそも私たちは日々の生活が忙しい上、実践の最中にいるとより立ち止まって、全体を観察することが物理的に難しくなる。いろいろな発生する問題に対処するためにタスクが積みあがってくる。そのまま問題に対処し続けることを選ぶのではなく、自分の頭の中の思考がどのように現実に投影されているのか、問題に対処するという日々のルーティンは適切に機能しているのか、プロジェクトを行うという解決策を選んだとして、日々発生する保守の習慣を受け入れる余白があるのかと立ち止まって問題を深く観察することが、そのまま解決につながることもあるのだ。

 観察をすることは、何かを始める以前の初歩でありつつ、どんな段階であっても有用な真髄となりえる。情報が一切ない中で実践を通じて情報を蓄えている段階、何かを初めてある程度情報が集まりつつも、構造的な行き詰まりに立ち会った段階。それぞれの段階において、構造を洗い出し、観察し、問題を問題として捉えている自分の思考にメスを入れること、そういった作業は、例えばコンポストを作ることや、水タンクをつくること、気候変動のデモに行くことや小屋を建てることよりも地味で初歩のような気がするが、「最小の介入によって、最大の効果を」というキーワードも存在するパーマカルチャーにおいて、その真髄を体現する手法でもある。

注1David Holmgren “Retro Suburbia” Melliodora Publishing 2018, p.388