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橋をかけること。科学と不可知論、目に見えないもの。UNITEDブログ37回

私たちの技術と科学は、私たちを幸福にしないのではないかという直感がまとわりついている現実があると思う。化学工業に対しては、水俣病が。原子科学に対しては、福島の震災が。清潔でいるということを維持するはずの手段であったプラスチックは、今はマイクロプラスチックという新たな汚染へと反転し、豊かな世界を目指して活動すれば、するほど、気候変動の要因となる二酸化炭素が出て、環境に負荷がなにか良いものを作ろうとして経てきた道そのものが否定されているような、言葉の世界を私たちは生きているように思う。

私たちは、大きな戦争と戦争の間を生きているという戦間期という言葉で今の時代を問える向きもあるが、平和を強固な現実として立脚する精神にとっては、不吉な終末の未来を預言された世の中で、その合間を生きているということは、不健康にも思う。そしてそれは、進歩と科学が、環境問題が、私たちの未来に暗い預言をするのであれば、それは未来に対しての漠然と不安の源泉ともなり、そういった形で捉えてしまいがちな現実は、精神にとってきちんと否定した方が健康だと思う。

世界は、科学で追いきれないほどの因果の糸に結ばれていて、また人間は、目に見えることは得意だが、目に見えないものをきちんと言葉で、厳密に記述して、解像度高く捉えることが苦手だ。とはいえ、科学もきちんとしていて、複雑系や、システム思考、構造主義など、今まで人々が捉えられていなかった複雑な事象を捉える手法が発展してきた。

一方で、そもそも科学は、文明の発展を約束してきたものではないし、人々が便利になるように発展してきたものではない。厳密な真理を追究するうえで、自然界の減少や因果が追いきれないほど存在する、すべてのことを人間はしることはできない不可知論の世界において、一部を照らす松明となるために、多くの科学者がその一生をかけて、本当にちいさな世界の片隅を照らす灯りが集まって、今の世界の認識が存在している。

こういった真理は世界の限られたところを照らすものであって、私たちがどのように生きたら幸福であるのか、目の前の土地や世界とどのように関わったら、私の願いや思いがかなうのかという問いに答えてくれるものではないというところが、核心的に大事な点だ。また、私たちが知りえない知識や世界に対してどう向き合えばいいのかということも、探求されていない点だろう。

私たちの身近な問いは、どちらかというと基礎的な科学を応用して、目の前の世界をいかに照らすのか。目に見えない世界に対して、どのような態度と、確信をもって自分の生を送るのかという問いの方が、大きな存在であるように思える。おそらく、暮らしがもっとシンプルであったころ、わたしたちはどこからきて、どこへゆくのかという悩みが、より大きな存在感をもっていたのだと思う。星空や、森の木々が死んで、また命が生まれてゆく様を、おそらくわたしたちよりも、昔の人たちの方が、必死に観察し、そこから何らかの真実や、世界と交感するすべを、必死で考えていたに違いないとおもう。そういった目に見えない世界や世界の始まりを雄弁に語ることによって、神話や伝説が生まれて目に見えない世界への橋を言葉によって、かけようとしていたのだと思う。

目に見えない世界へと橋を架けることだけではなく、目に見える世界にも、私たちは参加できて、橋を架けることは、たくさんあると思う。アマゾンのアチュアル族の神話で好きなものは、畑の表土の精霊が存在して、人が働きかけることによって作物が作られるというものだ。また、日本で暮らしている私たちは、蚕も神様として祭っており、田んぼにも神様がいる世界で生きており、またその祭事も生きている。

つい、そういった世界と科学の世界とは、切り離して考えてしまうことが多いが、直感と観察と語りによって、世界を照らす光の当て方が、異なる側面であるいうことなのだと捉えられる。どちらが真実であるかというよりも、重要なのは私たちがどうやって世界を照らし、関わりを持つ主体になるかということである。

わたしたちは、生命こそが真実であるという世界、わたしたちが常に生きていて、そこから離れてみることのできない自然科学の世界を、ヨナス言葉を引用したい「魂を欠いた物体と、目標を欠いた力からなる領域であって、その両者の運動過程は、空間における物体と力の量的分布に応じて慣性の法則によって進行する。生命のあらゆる特徴は徐々に自然の観察から取り除かれ、私たちが感じている生き生きとしたあり方を、自然の像へ投影することも厳格に禁じられた」

魂という目に見えないものの在り方だけではなく、観察による、生き生きとした生命の在り方すら、自然の像へ投影することが厳格に禁じられたという言葉は、少し行き過ぎているように感じるかもしれないが、特に自然からの恵を資本へと転形する過程において、家畜や土地、森や果てには人間に対しても、近代の社会が行ってきたことを想えば、それは魂を欠いた物体と目標を欠いた領域で、観察による自然の特徴を無視して、自由に収奪し、行為して良いのだということに直接接続する考え方でもある。

そもそもの前提として、わたしたちは、わかっている範囲のことから、世界を見ている。一方で、世界や宇宙はまだまだわかっていることが少なく、特に土の中にいる生物のことなんて、研究されてきたことが少なく、ほとんどわかっていることが少ないといっていい。一方で、もとは厳密な観察から発展した科学の見方は、わたしたちがどうやって世界と関わっていったらいいのかということの解像度を上げ、生命や物質についての理解を助け、世界の本質に迫ることの一つであった。それは、民主的なものであり、だれがやっても同じような道をたどれば、同じような結果が得られ、それは批判に開かれており、時間がたつことによって、真理であることがより強固にチェックされるのが、科学の良い点であると思う。しかし、それらはより合理的な方法と世界の成り立ちを説明するものであっても、私たちがどう生きるべきで、どうほかの生命や土地と関わるべきかという答えを教えてくれない。

私たちに必要なのは、私たちはどう生きることが可能であり、どういった形で、目に見える、そして目に見えない世界との間に橋を架けて、どうやって生きるのか、そのための言葉をどうやって探すのかということであると思う。その一つは、観察であり科学的な観察で世界を照らしつつ、自然の観察から得られた生き生きとしたあり方を投影しなおし、わたしたちが好き勝手収奪し使用していいものという以外の形で、土地や自然と関係を作り直すすべを模索してゆくことが一つの道であるように感じた。

引用ハンスヨナス『生命の哲学』細見和之・吉本陵訳、2008、法政大学出版会p.16