ブログ41回武谷三男『特権と人権-不確実性を超える論理‐』から「分断とのたたかい」書評。
水俣のことから引き続き、「特権と人権」概念が、今の政党の主義、社会主義、共産主義、労働組合、資本主義等を見るときに一つ役割を持つので、概念整理を。
そもそも、マルクスの語っていたことは、資本家と労働者の対立で、資本家が労働者に対して特権を持つ構造になっていたということがあり、労働者の立場に対して特権を行使でき、「人権」が搾取されていたと。
人権、公共、私権について整理しておくと、自分が例えば、新幹線が自分の街に来た時に得をするというのが私権。これらは、公共のために「あなたのところに新幹線を引くことはできない」というのは正しいと。一方で、公共のために「公害で病気になってくれ」「先祖代々暮らしていた土地から出て行ってくれ」などは、人権が侵されているということ。
労働の形態いわゆる「蟹工船」の世界では、資本家によって人権が侵害され、それが国家の武力と結びついているということがしっかりと描かれていたのが、資本家への批判と共産主義のアイディア。一方で、社会主義国として成立した国は、戒厳令の中で権力を集中してでき、平和裏に構築されないがために、その状態が便利で、それが逆に国民の人権を抑圧してしまう点末に。
資本家ではなく、国家計画を作る官僚主義になり、官僚が人民に対して特権を持つという構造になり、それが国家内の民族と結びついて、民族ごと人権侵害を行うということが、起きていることから、主義思想の問題ではなく、特権と人権という視点は大事だと
特権を持つ立場の者にはそれなりの倫理と制限をということで作られたのが、憲法であり、政治から独立する、最高裁であり、行政がわかれているゆえんでもある。ユーチューバーが個人の確定申告と裏金の問題を同じ並びで語っていたが、特権を持つからこそ、強烈な倫理が必要であり、裏金がより重要な問題となるとは強調してほしいところではあった。
資本主義の世の中になって、特権の構造がより見えづらくなっていて、個人個人の中で誰かが誰かに対して特権を行使することが、資本家/労働者ではなく、サービスの受け手と担い手という形になり、今カスハラと呼ばれることは、お客様側が、相手の人権を無視して特権を行使することだと考えれば、わかりやすい。こういった形で権力が分散しているのが現代だが、それに伴ってそれ相応の倫理も分散しているとは言いがたい。一人の人間に、特権と人権という基本的なカテゴリーがついて回る。
「問題は小さな特権らしきことが与えられ、そのことによってその人の人権が侵されていくことだ」と武谷は述べる。政治は、そもそも再分配のシステムであり、みんなのニーズには答えられないけど、めちゃくちゃ悲惨な状況の人が出ないために存在しており、それはそもそもが、社会主義的なアイディアでなりたつものだ。一方で、政治団体のマニュフェストを見ると、ポピュリズム、こういう特権を付与するよということが民衆迎合で述べられているものが多いのは気になった。小さな特権らしきことが与えられ、そのことによって人権が侵されてゆくことが無いようにするためにどうしたらいいのか、だれに投票したらいいのかということは、正直はっきりと伝わってくるものが無かった。
特権/人権概念でいうと、どの政党が政権をとることが政治にとって解決することであるというよりも、批判がちゃんと届くということが、一つの党が大勝することよりも効果的であるように思う。強すぎる特権は、ブレーキを壊してゆくことに繋がり、人権をないがしろにすることにつながる。アメリカの選挙を見ていて、どちらも選べないというのも、正義/不正義概念で対立構造がつくられていることそれがそもそも強烈な構造であり、普遍的にある「特権/人権による分断」をどうするかという本質の連帯にたどり着かない構図で2者択一を選ばせられているものだと思う。
1978年に、すでに武谷三男さんと鶴見俊輔さんで、「分断とのたたかい」というタイトルで対談しており、今やアメリカで「シビルウォー」のような映画まで上映されるようになったが、この特権と人権の問題の本質は「分断とのたたかい」なのだとよく理解できた。分断は、政治家の言葉やマニュフェスト、また科学者や専門家の言葉などもそうだと思う。市民の科学や、市民の議論としての言葉と、学問としての言葉が分かれてしまっていること、科学それ自体が「特権」的なものになってしまっていることが分断の根の深さを示しているのだと思う。
「正しさの言葉」はむしろ分断を生むのではないかとまで、最近感じ始め「人権」としての科学は、そういった言葉を取り戻すことであり、面白いこと、インタープリテーションや表現としてもっと日常にそういった言葉を取り戻すプロセスが必要なのだと思うし、そういった日々のニーズに結びつくものであれば、人々の連帯は可能なのだと思う。
正しいかどうか、科学的であるかどうかということには、自分自身から発せられるものであり、知りたいと思う人がいたときに、正しさを主張することよりも、科学的な検証や批判や反証に耐えられるものであるかどうか、論理を追うプロセスを、伴走することの方が「人権の科学」として正しいありかたであると思う。正しさの主張の根が「特権の行使」や「私権の拡張」から発せられていないかは、よく見た方がいいと感じる。
何度も注意深く書かれているが、特権と人権はついの概念であり、あの国は人権がないから戦争するという形で、人権だけが取りざたされて言葉が使われているが、それは正確な使い方ではない。国内の特権を持つ人がそのほかの人の人権をないがしろにしているという形でセットとなるものであり、江戸時代など自由、平等、人権などの概念がなかった時代でもそれがフェアになるような形で市民社会が倫理性をもっていたということは存在する。
また、時代が進んで現在、国家が安全を保障しない人の権利や人権、諸権利の権利を有さない難民のような人にも人権が存在するという形で、国家に所属していることそれ自体も人間の安全保障という概念がでてきた。国民であることの特権にたいして、移民、難民の人権が侵害されるということも、特権と人権の対比で考えることができ、選挙権をもっている、日本国民であるということも、難民の視点を借りると特権となりうる。
分断が本質な問題でありつつも、連帯が難しい理由は、それが可視化されないこと、ちいさな特権がさまざまな形として存在しているため、人権を失う状況にある人の視点を借りないと連帯がしづらいことにある。私権の拡張のための声を届ける人や政党ではなく、本来、声が届かない人たちの声を代表する形で可視化される場であったらいいのではないかとは強く感じた。