ブログ42回「共に生きてきた野生に出会うこと」
大叔母さんがおそらく亡くなる間際まで、計画して植えたみかんの木を引き継いで、カメムシの秋を迎えた。木を植えることは、自分の世代を超える確かな一つの手段だ。
昨年はカモシカ里山サポーターでサポートしてくれた人、お世話になった人に送りに送っても取りきれなかったみかんがほぼ、全て「美味しくない」と感じる味のまま落ちに落ちて、げんなりしていたなか、忘れた場所に植えられていたみかんに出会った。
半分森のようになっている場所は、比較的クモも多く、カメムシも少ない。心の師匠の一人に、やさいくんというインバウンドのガイドだった先輩がいて、「なぜ野菜は枯れるのか」という、つよい野菜は腐らず枯れるという衝撃的なブログを読んで、それ以来、一つの到達点にみかんも皮が強いあまり、放っておくと枯れていっているのを目標にしている。
とはいえ、木によって個体差があり、カミキリ虫の入って、表皮が禿げてしまっている木は明らかに健康ではない。老木ながら頑張ってたくさん実をつけてくれているものの、カメムシに傷をつけられたものは、健康なみかんの味ではなかった。
一切の期待のない中、奥の方にある小さいミカンの木に完熟の色のみかんと、皮が無傷のまま、腐敗ではないにおいで萎んでいるみかんの木があった。
味は、酸っぱくて粒がしっかりしていて、しっかりと甘い、いつもの味だった。品種なのか、場所なのか、葉も元気で、健康で強い味だった。ダンボール半分しか取れなかったが、みかんの木と自然の中で出会ったという気がした。
これだけ保存や流通がきくせかいに生きていると忘れてしまうが、お茶の葉を見てると、生命が本当に輝く時は本当に一瞬なんだなというのを思い出す。花が本当に美しいのは一瞬のように、本来、食べ物はそういう生命エネルギーを体に取り入れるものだったのだとも感じる。
自然農というと平和なイメージがあるかもしれないが、弱肉強食の世界に身を置きつつも、その摂理に負けない野生であることを、木々たちにに思い出してもらい、その力を引き出す事抜きには、やはり弱い個体をちゃんと淘汰するように自然は作用するのだと感じる。
引き出すといっても、みかんのか木も一つの野生なのであって、つるに負けないようにとか働きかける事はできるものの、その結果を最後まで予想できるまでもなく、みかんがあるのを見つけた時に、はじめて野生の動物に出会ったように、驚いた。
自然環境保護や、SDGsとは言われるが、自分にとっての自然や野生というものに、出会った経験は一期一会で、その経験の積み重ねからそれを守ろうという言葉に繋がる事が、日常生活の科学と言葉なのだと思う。
正しさのための科学ではなく、それを自分自身の言葉と探求として取り戻すのは、野生や自然といろんな形で出会う事が根っこにあり、そういった出会いは世界に対する信頼や価値であると自分は思っている。