ブログ43回「特権・権限・正義・価値」ロバート・K・グリーンリーフ『サーバントリーダーシップ』
ガイドをしていると、環境の事や教育、人権、地域振興や、医療、貧困の改善、研究者など職に就いている人と接することが少なくない。こういった人たちが、自らの道を歩み始めた、そもそもの動機、原点に「わたしたちが暮らす社会のために貢献したい」という想いが、話を聞いていると、多かれ少なかれある。しかし、これらの課題は複雑で、個人で解決できる問題ではなく、組織で取り組まれるものの、自分が志したことに対して、現実は権限が少なく、構造的な問題の解決にたどり着けず、燃え尽きてしまうことも多く耳にする。
なぜ、世界をよくしたい、そのために働きたいという想いを抱き、自分の人生の前半をささげて学び、自分の私権を拡張するためではなく、待遇や環境が必ずしも良くない中で働いている人々の社会的地位が低く、課題にアプローチできる適切な権限にまでたどりつかないのか、どうしたら彼らの活動が社会的な価値を認められ、適切な権限と幸福に生きるための自分自身のニーズを満たすことができるのかと、以前から疑問に思っていた。
日本の選挙、アメリカの大統領選、またウクライナ、イスラエルでの戦争もあり、権力や正義について考える時勢でもあるので、権限、正義、特権、価値の4つのキーワードと、またこれらの概念を考えるうえで指針になる、『サーバントリーダーシップ』を中心に考えてゆきたい。
まずなににもついて回るこの「権限」と「特権」の問題から考えたい。権限の問題は、その構造として難しさをはらんでいる。多くの革命がそうであるように、抑圧される民衆に対して、社会の権限が集中している悪政を倒すことによって、社会が良くなるということは一見わかりやすいストーリーだ。一方で、現実は特権を占めている人を排除したものの、権力を握った人が同じように自分より立場の低い人の人権を侵害することが発生する。
そもそもなぜ今現在ある、リーダーシップが働かなくなってしまったのか、そもそも今運用されているヒエラルキー型の組織はどういう利点があったのかを一度振り返りたい。私たちの社会の基本原理や基本としての正義は「能力のある人、努力する人は報われて権限が与えられ、怠惰な人には権限が与えられない」ということが基本原理として存在する。また正義概念の基本として「悪人は罰せられ、善人は報われる」というものが存在する。基本的に、この概念がリーダーシップや社会構造において存在しなければ、成り立たないことは明白だ。努力するインセンティブや、正直でいることのインセンティブが失われ、うそがまかり通り、暴力や弱肉強食、人をだましてのし上がる世界になってしまう。
能力のある人に権限を与えるということは、それ自体も正義だが、もう一つの根を持つ正義概念、平等も担保している。会社や組織であれば、評価基準が存在し、それによって給料や立場なども決まる。このことは、成果主義、能力主義の社会などいろいろな言葉で語られていることだ。
そもそも、国際社会で「法の支配」ということが、わざわざ言われるように、社会はここまでの正義を達成するだけでも相当難しい。日本では、環境問題の被害者を救済する制度でも、同じ評価基準で同じように保障を届けることができず、裁判となっている事例もあり、アジア、アフリカ諸国では、長引く紛争の調停のため、苦渋の決断の上に成り立つ平和として、悪人が権力の座に就くことが当たり前のように起きている。様々な形の不正義は、いまなおしつこく、モザイク状にこの世界に存在する。
一方で、こういった正義概念が行き過ぎてしまうことによって、複雑な問題が発生することがあるのが、現実の社会だ。特に、権限がある人が偉い、権限があるということが正義であり、ほかの権限を持っていない人の諸権利や人権を妨げて良いという形で誤解し始めると、それはほかの人の人権を妨げる「特権」となる。
こういった正義の問題は、アメリカの大統領が宣誓を誓うときに片手を置く聖書の中にたくさん収められており、何千年もの間議論されてきたことだ。サーバントリーダーシップは、その中から、今でも何千年たった今でも生き生きと語られる一節から、リーダーの資質(日本語訳では一歩下がるというユニークなものなどwithdraw,perception,awareness)を見出しているので、ここでも同じ事例を用いて正義と特権の問題に近づいてみたい。
通りかかったイエス・キリストに対して、当時の正義概念の守護者のような律法学者が、だれが罪を犯したこの女に、律法で定められているように、石を投げるべきかという問いが投げかけられる。この問いは、キリストを訴える口実を作るためであり、投げろと答えた場合、殺人を推奨したことに、投げるなと答えても律法に反したという口実を得られる罠であった。これに対して、「まずあなた方の中で罪(単数形のsin律法の中の一つ一つの罪はsinsであり、一個一個の法律ではなく、人間の存在一般としての罪にかかる意味)を犯したことのないものから投げなさい」ということを言った結果、誰一人石を投げることも、イエスキリストを訴える口実を得ることもなく、立ち去った。
律法学者は、自分たちの立場を特権として用いており、キリストに対してその人権を侵し、権力をふるう正当性を、法律の中から取り出している。人は、特権的な立場と人権的な立場をそれぞれ有しており、それは拮抗して一人の個人の中にあるものだ。そもそもの律法・また宗教や聖書のコンセプトとしては、人々が良き社会を築き、良い生を送るために人々に仕えるものであり、ある一握りの人々が、他の人々を支配するための根拠として用いられるものではなかったはずだ。
今、わたしたちの時代が直面する現代の課題ー環境問題・格差・分断ーは、公平や平等、成果主義など、一つの正義を成り立たせようと皆が努力した結果、形成された社会構造に深く根を張っている。
そもそも、私たちが慣れ親しんでいる一つの真理、一つの正義という概念は、近代の科学、還元主義のアイディアから様々な形で強化されている善悪二元論の世界観だ。一方でサーバントリーダーシップのそもそものアイディアは、ヘルマンヘッセ『東邦巡礼』のレーオという主人公だ。サーバントリーダーシップの本書の中でも「易経」に言及されているが、ヘッセも「知と愛」という2つの矛盾するコンセプトが、一人の人間の中に存在するという世界観を用いている。また、今まで言及してきた特権と人権のイメージも、一人の人間の中に対立する両方の立場が存在するという二元論ではない、両極が一人の中に存在するイメージだ。
サーバントリーダーシップの字面だけを見ると「共感が大事」「聞くことの力をつけろ」という意味合いしか引き出せないかもしれないが、サーバントリーダーシップを「特権と権限のジレンマを超えて、組織や社会内で自然に発生する構造的な課題に取り組み、全体のシステムの変革を志すリーダーシップ」という形で言葉を読み替えると、その言葉は現代の社会の行き詰まりに通用する力あるものとして、鮮やかに浮かび上がってくる。
自らの立場や権限を拡張するためではなく、組織内でこういった志―サーバントの資質―を持つ人を見出し、直接トップから権限を渡そうというアイディアがトラスティという形で本書の中で紹介されている。自分の得ている立場に付随した、自然に発生してしまう特権から最も遠いところにいる人に、権限を渡すことによって、組織が陥る権限と特権のシステムの問題に直接アプローチをするという、今までの価値観の正しさの中に座していては、発想すらできない場所に橋を架ける、斬新なアイディアだ。
権限のヒエラルキーは特権を生み、特権は分断を生む土壌となるため、繋がっていない場所に橋を架けにゆくことは、状況を打開する一つの有効な手だてとなる。
本書の中で、リーダーシップの問題として後半に取り上げられている組織として、財団や学校、官僚組織などが挙げられている。なぜ、これらの団体が取り上げられているのかというと、本来、私たちの社会に貢献するような理念から設立された組織が、なぜ問題をかかえて機能不全に陥ってしまうのかという点と、これらの組織は、サービスの提供者と受けての間に、小さな特権を自然と持ってしまう構造になっている点からではないだろうか。
財団で考えてみると、「お金」という明確な力関係を形成するものが、与える側、与えられる側として明確に分かれること、また、教育だと「知識」という力関係を形成するものが、教える側、教えられる側に分かれる。あたりまえだが、こういった力関係があると、上流に向けてのフィードバックが効きづらくなる。しかし、こういった組織こそ、本来、私たちの成果主義の社会で、優先されがちな価値判断の基準ー生産性ーにとらわれない社会的な価値の重みづけができる組織であり、社会変革のポテンシャルを持つ場でもあるのだと思う。
評価や価値というのは、定められているものをみたすことで達成されるものであるにとどまらず、私たちがこの世界に持ちこむもの、価値焦点を合わせるものでもあるのだ。本書の中で語られている奴隷制の撤廃に尽力した人物や、フォルケホイスコーレのコンセプト、また合衆国憲法などの仕事をした人物に言及され、そこにサーバントリーダーの資質を見出されている。フォルケホイスコーレのコンセプトは、大学や研究者でなくても学びにひらかれ、今までなかった価値が世界に持ち込まれているものだ。
個人として、自分は何を価値としてみて社会を作るのか、どういったことを正義とするのかということは、そもそも私たちが普段考えていないことであり、一度立ち止まって自分自身の価値を探求する時間と空間が必要であり、その結果として見つけたその価値は人によって多様でもある。
その差異が対立や、多数派による新しい特権を生む契機となるのではなく、差異をテーブルにあげた上で、対話をへて初めて「私たちの価値」という共通の価値になる。このプロセスを抜きに、意思決定の場で多くの物事が決まってゆくことが多く、社会に対して貢献したいという、おもいを持つ人をいかせず、今の時代の社会に参画することに対しての、無力感につながっているのではないかと感じる。
一つの有効なてだては、サーバントリーダーシップが、まさにそうであるように「わたしたちが暮らす社会のために貢献したい」という人々と適切な権限や知識、アイディア、仲間なとつながれるような橋をかけることが必要だ。それは、サーバントリーダーシップの書籍の中にあるように、理事会がイニシアティブをとって組織変革のための人材を探し、権限を与えるトップダウンのプロセスでもなしうるだろう。また、現場にいて、課題をトップにいる人よりも立体的に把握できる人が、その課題を解決できるだけの資本や時間、人材にアクセスするようにするボトムアップからのプロセスでも可能であるように思える。
もう一つの本書から学べる手立ては、私たちの社会に深く根付いている既存の正義概念、成果主義や平等などのシステム根幹の価値に対して、別な価値のビジョンを提示することだ。正しさや評価は、既存の基準から見出され、それに対しての資本や優先事項の重みづけがされる、社会やシステムで物事が動いているが、別な価値やコンセプトを自分たちで形成して、社会に持ち込むことができるのだということは、忘れられがちだ。
「わたしたちが暮らす社会のために貢献したい」という人に適切な権限を渡すための想像力、また新たなビジョンを社会に持ち込むこと、この2点においてもサーバントリーダーシップは、私たちに多くの事を示唆してくれる本であり、50年たった今でもそこから新しく、学ぶことは多いだろう。