ブログ44回パーマカルチャーのコンテクストとレジリエンスの未来/文化的な分断の世界と連帯の基盤としての、食、住、習慣 【デイビッド・ホルムグレンIPC台湾キーノートセッション、考察】
50年前に、ビル・モリソンと共にパーマカルチャーのコンセプトを作ったデイビッド・ホルムグレンの2018年に出版されたRetrosuberbiaの読書会を2020年から行ってきて、早くも4年たつ。そのタイミングで、台湾のパーマカルチャーの国際カンファレンス・コンバージェンスが行われることとなり、デイビッドも基調講演を行うということで、IPCへ訪れてきた。
そもそも、パーマカルチャーとは何か?と言われたときにその説明の難しさは、その文脈の長さにある。SDGsが有名になってきたのは、それこそこの10年の歴史しかないが、パーマカルチャーは、SDGsに先立つ持続可能性という言葉ができるよりも10年も古いときから、学生だったデイビッドが取り組みはじめて、50年という時代の中で生き延びてきて、多くの人たちの考え方を変えてきた力強いデザイン科学だ。
もちろん、その50年の間いろいろな人が、いろいろな文脈の気候、地域の場所で実践してきた。そして、それは、地球のケア、人のケア、平等な社会を作ることを目的とする手法のため、いわゆるビジネスやスケールを目的としておらず、事業の中で例えばダイビングのようなインストラクターの資質によって人が事故で不幸な思いをするものではなく、もっぱら個人やコミュニティの自発的な実践のための言葉と手法の側面があるので、
ダイビングのインストラクターと違って、かたい定義と国際的な資格制度が体系化されているものではない。72時間のパーマカルチャーのコースPDCも多様で、PTTというティーチャートレーニングもインタープリテーションとカリキュラム作りのトレーニングのような形だ。
そのため、今回デイビッド・ホルムグレンが何を話すのかということに対してどういうことを期待していいのか、レトロサボービアという2018年に書いてある本に何が書いてあるのかという理解が、そもそも必要になってくる。
まず、今回話されたこととしては、50年前から実践してきたパーマカルチャーの流れ、文脈の説明とその変遷、レトロサボービアのコンセプトの地方都市のスケールのフードシステムのシステムのビジョンの詳細、またこのカンファレンスに対して、台湾のネットワークをエンパワーメントすること、中国のパーマカルチャーの担い手との橋を架け、中国にパーマカルチャーのつながりの花を咲かすという目的がある、という焦点化が、中心の話題だった。
デイビッド・ホルムグレンの著作で重要なものを4つ挙げるとすると、パーマカルチャーの12のプリンシプルのbeyond sustainability、未来の気候変動の激しさと政治的な不安定さによって、4つのファクターで考えた未来のシナリオFuture scenario、デイビッド・ホルムグレンの長年の思索の流れを追える、コレクティブライティング、そしてこのRetorosuberbiaだ。思想とは積み重ねであり、それぞれが独立したものではあるが、地層のようにレトロサボービアのコンセプトの元にはこれらの思考の上になり建てられており、今回の公演のように全体を素描するようなスピーチをつかもうと思うと、エナジーディーセントフューチャーや、ブラウンシナリオ、地方都市の自給率など、それぞれの著作の核心部を知らないと概要がつかめないことばが多い。
そもそもの話になるが、デイビッドは、パーマカルチャーの創始者のひとりではあるが、「パーマカルチャーとはどういうものでどうやって使うのか」ということについてわかりやすくしゃべる人ではない。それはどちらかというと、今回のカンファレンスにも登壇し、難民キャンプなどのエンパワーメントプログラムなども行っており、Earth users guide, Earth restores guideなどのローズマリー・モロウの仕事だ。また、その手法を今の文脈に置きなおし、新しいビジョンや世界観を見せてくれるのは、自分の師匠のGood Lifeの著者、 ハンナの仕事であり、同じ世代で活躍するコスタの著作と言葉に求める方が適切である。
デイビッド・ホルムグレンの仕事として、あえてどういうものか説明するのであれば、パーマカルチャーのコピーライターであり、理論家であるということが適切だと思う。今の時代をエナジーディーセントフューチャーとしてみることや、地方都市に自分自身を養わせるとしたら、どういうことが可能か、パーマカルチャーの手法を、「生態学」「建築分野」「人間の行動」に分けて、それぞれの理論を自分の実践と観察、そして50年の間に読み進め、検証した幅広い世界の文献から引用してそのメリット・デメリットを詳明にし、理論的な土台を整えるという仕事をレトロサボービア、コレクティブライティングなどの書き物をするライフワークとして行っている。そして、一年に一回自宅のメリオドラでパーマカルチャーの詩の大会なども行っている(オーストラリア在住者のみエントリー可能)。
それだけ、理論と言葉の人であり、翌日のキーノートセッション、サティシュ・クマールのスピーチが、敵を愛すことや愛について語っていることと、パーマカルチャーのコンテクストから地方での自給の可能性について理論の言葉で語ることは、大きく印象が異なっていたと思う。一切のお金を持たずに行ったピースウオークなどのアクティビズムの中に生きた人と、メリオドラの日々の自給の暮らしを50年続けているデイビッドの言葉を比べると、大きく対照的なキーノートのスピーチでありつつも、目の前の人の感情に対して、目の前の人の核心的なコンテクストに対して、どちらも真剣に届く言葉を手渡す姿勢に対しては、違いはなかった。
まず、私たちの未来にたいして、描いている将来像のイメージと、レトロサボービア/トランジションタウンの描いているイメージの対比が、デイビッドのビジョンに取り掛かる上で、とても分かりやすかったので、そこからレビューしたい。
まず、将来のエネルギーにたいして地球温暖化が起きている。当たり前だが、そのままのエネルギーの使用量で、人口も増えていったら、地球上で人間が暮らせる場所がとても減り、難民も増え、大変なことになるのは、簡単にイメージできるだろう。次に、私たちがなんとなくイメージしているのは、CO2の地下貯蔵とか、太陽光パネルとか、小型核発電とか、AIとか水素自動車がなんとかしてくれるのではないか、そしたら今のような暮らしが、いつまでも続けられるのではないかという期待だ。それを、「テクノステイビリティの未来」という形で、デイビッドは定義づけている。
テクノステイビリティの未来の特徴を見てゆこう。まず、ゴールとして設定されているのは、環境負荷の低減、持続可能な暮らしができるぐらいの小さなインパクトで人間や社会が活動することが、ゴールと設定されている。次に、その戦略としては、既存のグローバリゼーションの構造を維持したまま、誰かがトップダウンで声を上げていれば変革を起こしてくれるのではないかという期待だ。そのプロセスとしては、政策、プランニングと経済によって、また注目しているのは人工的に作られた環境、テクノロジーだ。
これは、私たちが「環境!SDGs」といったときにイメージしやすいことで、よく日本の中でほめたたえられるドイツの環境政策などが、テクノステイビリティのお手本といえるだろう。これは、確かに取り上げられたら正しいことだと同意してしまうことだが、そもそも私たちの暮らし方が持続可能ではないのではないのかもしれないし、そのことによって、大きな不平等を生み出してしまっているのではないかという疑問には答えない未来だ。そして、政策、プランニングと経済主導のこれらのことによって気候変動が良い方向に向か言って、1.5℃の目標値を達成できそうかというと、そんなことはないのは誰の眼にも明らかだ。そして、エネルギーのステイビリティ(定常化)ではなく、オーバーユース(より加速)していっているのが現状だろう。
一方で、エネルギー使用量のステイビリティ(定常化)の事を持続可能性と呼ぶのであれば、もっと意欲的な提言ができるとしてデイビッドがイメージしていたのが、エネルギーディーセントフューチャー(エネルギー使用量の減少する未来)だ。未来のシナリオ、プリンプル、レトロサボービアを貫く一つのコンセプトとして出てくる。
トランジションタウン・レトロサボービアの未来は先ほどのステイビリティと対比すると、このようになる。ゴールとして設定されることは、負荷の低減ではなく、レジリエンスの増加だ。レジリエンスとは、生態系内で例えば木が切り倒されるなどの攪乱が起きた時にそこから大災害につながって森が失われるのではなく、多少の影響であれば森は復元する。これは、生態系が複雑なシステムとして存在して、いろいろなところに生きているニッチがあり、種が動物に食べられるぐらい余分に生産されていたりなどのいろいろな要素が組み合わせられて起きるシステムの減少だ。システムであるもの、私たち人間の脳細胞や社会なども、こういったレジリエンスが存在する。未来が変化すること、現状が維持できなくなることが問題なのではなく、変化が起きた時にそれに対応できるレジリエンスがないことが問題であるという着目する視点がまず、大胆に変化している。
次に、戦略として、地域の並行的に走っている人間の暮らしにまつわるシステムを、ボトムアップから作り直すことだ。私たちの食料供給システムや、住宅のシステム、特に都市のシステムは、福島の原子力発電所が閉鎖されたときに計画停電が起こる、コメが猛暑で取れなくなると価格が上がり、価格が上がると皆買おうという心理が働き、結果売り場からなくなるということは、私たちが経験したことだ。こういった暮らしのシステムが、より資本の利益率の生存競争の土台に乗れば載るほど、勝者は一人で他は淘汰される。しかし、そのような効率重視の中央主権のシステムを作ってしまうと、地震や噴火、気候変動などの変化に対してものすごく脆弱なシステムに不本意になってしまうということが、現に目の前で起こっている。そのため、複数のシステムを、自分たちで小さくても作ることは、大切なのだ。
さて、そのプロセスとして、政策や経済などの言葉が目立ったテクノの未来だったが、自発的な組織や、実践、文化やその土地に住む先住民(今回の台湾のはわかりやすい)の持つスピリチュアルな文化などをそのプロセスの中に含むというアプローチだ。現状維持をするのではなく、より積極的にエネルギー使用量を減らしたライフスタイルを作りながらレジリエンスある生活を営むのなら、政治や経済をいじるよりも、その土地で人々はどうやって石油や電機などのエネルギーがない時代に豊かに暮らしていたのかという歴史から学ぶことは多いだろう。
いかにエコな環境や建物、テクノロジーを作るのかというどうしても「もの」に注目してしまいがちだが、レジリエンスを高めることがゴールとすると、生態系、また私たちの行動様式に注目するという点だ。マイバックやエコ製品をはじめとして「消費」行動が変化することが、ゴールとして設定されているエコにまつわる言説が多いが、そもそもの私たちの暮らし方、コハウジングやオーガニック農家への短期、長期滞在ができるwwoofなどの暮らし方、生ごみや下水、上水システムや、太陽光発電、断熱のセルフビルド、給与所得で暮らすのではなく、自分の生業を作ってみるなど、消費者から一歩踏み出してなにかしてみようと思うと割とできることはある。
ここまで、テクノステイビリティの未来と、エネルギーディーセントフューチャーの未来を対比してみたが、このような理論的なアイディアの対比によって、目的や理論を明確にすることが、デイビッドの真骨頂だ。ほかにも、有機農業をインテンシブファーミング、無農薬をナチュラルファーミングとその条件を細かく定義して、単位面積当たりの生産量と単位労働力あたりの生産量でそれぞれのメリット/デメリットを詳明して見せたコレクティブライティング・レトロサボービアの文章は刮目に値するので、農業生産の渦中にいる当事者にぜひ読んでほしい。
ここまで、エナジーディーセントフューチャーのデイビッドのビジョンを見てきたが、今回のキーノートセッションのパーマカルチャーのコンテクスト流れを見たい。背景として、戦後から1970年の時代は、日本含め各国における都市化が進行した時代だ。大量生産大量消費の時代であり、日本では水俣病を含めた公害問題、海外では沈黙の春が1960年代に起こり、またベトナム戦争、ヒッピーカルチャーなどが生まれてくる。そういった背景がある中で、デイビッドが今回言及していたことは、バックトゥザランドムーブメントだ。その詳細には踏み込まないが、レトロサボービアの文脈として、都市化が進行する一方で、農村部へ回帰する流れということに留意することが重要であり、それと同時に自給自足のための手法と思想が必要になり、パーマカルチャーはそもそもセルフリライアンス(自給自足)の農的な手法として発展した。
都市化が進行することによって、孤独や孤立、鬱、また食べ物を自分の手で育てる経験というものをそもそも学ぶ場所すらなくなってくる。そういった中で、トランジションタウンのムーブメントがイギリス、日本など各国でおこり、パーマカルチャーは個人が自給自足、フードフォレストを作るという物以上の「コミュニティ」や教育というものに対して射程を含み始める。そして、またパーマカルチャーのパイオニアの活動は、都市化する近代国家だけではなく、ジンバブエや東ティモールなどの国際開発の文脈において、かなり力を発揮している。それは、今回の登壇者がアジア・アフリカ諸国での砂漠の緑化や住居周辺のパーマカルチャーのシステムの構築、東ティモールでの学校教育への導入、水害の低減や、インドでの集水の事例などに取り組む人たちを意欲的に紹介していたことからも、50年たって大きな成果を上げているポイントの一つである。
一方で、我々を取り巻く国際的な状況は、各国のグローバル経済によるものの循環、特に食料や住居、水などの物が企業の力が強まり、近代国家が個人の人権や保護をケアする領域が増大し、一方で地域社会の相互扶助の力が弱まり、大きなシステムがリスクに対して脆弱な経済、物流が築かれている一方で、自然の変化による脅威の増加、地政学的な不安定さが世界を覆う現代。デイビッドが今回提示した、自給できるポテンシャルと生産性を確保できる土地があるにも関わらず、外部からの食料、エネルギーに依存する地方都市に自分自身を養わせるというコンセプトは、この大きな問題に解決策を示す福音というよりも、レジリエンスを高めるため、依存しないことをどうやって、現実にするのかということだ。
結論から言うと、広域で地方をブロックの住宅部、農村部、郊外の森林というゾーニングに分け、それぞれ主食の20%ずつを生産するような配分で自給することを積み上げれば、全体で100%の自給率になるというビジョンだ。今までの自給自足の言葉のビジョンが、自分一人ですべてつくらなければならないようなイメージにとらわれていたが、今の文脈では、コミュニティリライアンスという形で、それぞれが地域内で役割の分業をすることによって、生産性や地域経済が発展するというビジョンだ。
一方で、日本にはそもそも田畑、里山、奥山というゾーニングがあり、その中で自給していたのだと、勘のいい方なら思うのではないだろうか。日本の場合と、オーストラリアの場合だとそこに関わるエレメントがかなり違うことは、あらかじめ述べたい。赤土で大陸性のオーストラリアの災害は家事であるのに対して、日本では山崩れと水害であること。また、ニュージーランドなどと違って、行政によって「郊外」というものの存在を許され、市民が郊外の土地にアクセスできず、土地を所有しても狭いブロックに閉じ込められる場合もある。
また、同じように日本の法的な土地のアクセスの制限はかなり厳しく、農地法におけるアクセスのしづらさ、また獣の生命力の強さ、高温多湿による自然の遷移の回復力の速さが絶対的に違い、放置しておくとゾーン5の方からゾーン4.3を浸食してきて、気が付くとゾーン5の動物の領域に取り残された人間の集落と田んぼが、柵と電柵に囲われた檻の内側で暮らすことになるという皮肉な状況になる。
それだけ、人間が住み始めてから数万年を絶滅しないで生き延びてきた日本の大型の獣たちの力はレジリエンスがあり、また対する我々の社会システムが、人口減少を強いられて、野生と人間の境界をめぐる駆け引きの中で不利な交渉を迫られているのだ。里山の現実は、労働力集約型で、とりあえず機会の力も借りながら手を動かす必要があるが、時給換算で生産性の高い仕事がほかにいくらでもある日本で、インセンティブが働かず、人口が都市へと流出することは、戦略抜きのイメージだけで、止められる流れではない。
また、地方移住の流れが進んでいて、耕作放棄地の問題の解決も叫ばれているが、当たり前だが、野生動物との境界や、山間で日照時間の制限がある、アクセスが悪い場所から放棄される。こういったマージナル、エッジの場所にアドバンテージを見出すことが、パーマカルチャーの面白いところでもあるが、生産性を逆転させる優れたアイディアなしでは、端的に日本では苦戦する。
日本のランドスケープを、ゾーン5野生の領域と人間の領域がせめぎ合っているとイメージするのであれば、集団で暮らしてその境界を広げるという、エッジの延長のスケールのメリットが地方で起こることは理解できることだ。つまり、野生動物がアクセスできる農地が、人が沢山暮らすことによって、すくなくなるのだ。一人で完全に誰もいなくなった集落で、水などのインフラ、電気、コメからすべて地方行政の助けなしに自給することをイメージすると、都心の高級マンションで暮らすよりもはるかに初期投資も、建物から、道から維持費も、野生動物との戦いも時間もお金がかかることがイメージできるだろう。
だからこそ、ある程度のスケールの人が農村部で暮らすこと。その中には同調圧力がかかり、相互扶助のシステムが作られてきたということは、自然な発達の結果として理解できるのではないだろうか。こういった文脈と文化が強烈に存在していた地方が、維持不可能となりこの文脈が見えづらくなったところに途中から参入しなければならないというのが、日本の地方移住と里山を取り巻く見えざる文脈だ。
主食が小麦と米でそもそもイメージが違うため、レトロサボービアの食料自給のイメージを、そのまま日本のランドスケープにそのまま当てはめることはできないが、その中でも光る概念は、たくさんあり、またレトロサボービアの中のほとんどのページは、実際に暮らすうえでの住居、生態系、人間の行動に関して述べられているので、概論よりも各論の方が、適応可能でものすごく役に立つアイディアに溢れている。
パーマカルチャーのゾーニングの概念は、元来広いランドスケープを想定されてい造られていた。家がゾーン1となり、日常的な導線にゾーン2、その周囲に果樹園のゾーン3、4が広がり、森のようになる場所が、ゾーン5となる。一方で、郊外の場合は、所有する土地をゾーン2、広くても、バックヤード果樹園、フォレストガーデンの3までに区切り、4,5は広いランドスケープで見て、郊外のエリアに求めるようなイメージをレトロサボービア、今回の公演の中で、明確にしている。
そのため、レトロサボービアの中では、小さい範囲のデザイン、特に家の中や水のシステム、それぞれのガーデンのデザインなどの体系が主立っており、そこで100%の食料を自給するのではなく、20%の自給を目指す。小さい範囲であるにもかからず、何百キロの作物を有機農のインテンシブの手法を使い、作っている人の事例なども紹介される。また、郊外に暮らす4人の暮らし方のデザインについてもケーススタディとして触れられ、エコブービアにも言及された。
レトロサボービアのビジョンとしては、こういった暮らし方をする世帯が狭い範囲で7世帯おり、それぞれが地域での自給する役割や、小さな経済圏で苗専門の人、果樹専門の人など、役割分担を行いつつ、地域内の経済、ニーズを持たすものの循環があるようなトランジションタウンのイメージが広がる。そして、それが7倍のスケールで49人がそのようなことをし始める、またその7倍になり350人がという風に、自分自身で自分の食料や住居のニーズを叶えられる世帯が増え、コミュニティのやり取りも増してゆくことで、結果としてボトムアップのレジリエンスが高まるのだというビジョンだ。
ホルムグレンのキーノートセッションは、パーマカルチャーがバックトゥザランドムーブメントの自給自足の時代から、トランジションタウン、プリンプル、国際的な協力の過程を経て、建築、人間の行動、生態学の分野を扱った、レトロサボービアへと展開してきた過程を描写し、ケーススタディや、ローズマリー・モロウの書籍の紹介などを経て、文化的な分断が起きる世界の中で、だれにとっても必要な普遍的なことを扱っている事、またパーマカルチャーの概念自身も多様に現実に即して文化し変化するフローの中にあり、コンバージェンスに集った人々がまた散ってゆくこと、自分以外の視座の価値と真実を知ることを伝えて、講演の終わりに向かう。(以下、講演の要旨)
トランプ以後の世界が、気候変動が存在する、存在しない、SDGsの取り組みから脱却するなどの文化的な分断(culture war)が、気候変動や地球環境保護の国際的な合意や法を後退させるものであることと対照的に、レトロサボービアの世界は心情や概念ではなく、生きられる現実のことであり、すなわち日々の習慣であり、庭や食べものの生態系の事であり、住居などの建築の事を扱っていて、たとえその人が気候変動を信じていようがいまいが、関係なく関心が持て、必要なことなのだ。
パーマカルチャーは、違う文化、違う市民性、違う国家を超えるものであり、トラディショナルなアイディアとモダンなアイディアの間を架ける橋であり、超国家的な人間性、価値と権利に対しては、謙虚であるべきだ。今、さまざまな文化や自然が失われる世紀が始まる前に、古くからその土地の人が暮らしてきた文化を改めて発見すること、現代の社会システムにおける暮らしの文化を改めて発見して、自らの生活の中に位置づける場所を見つけることが必要だ。
この、不確かな時代のコンセプトとして、どれだけ、自分の事に情熱的であってもそれ以前に、ほかの視座、視点からの真実を見つけること、違うパースペクティブの真実と価値を知ることは、意味があることだということを、提言したい。コロナに代表されるように、犠牲や困難を受けた人の偏り、人々の間の不平等や、さまざまな形のディスアドバンテージが、坂のように存在している。私たちの間の違い、それぞれのムーブメントが対象としている問題が異なること、その道は多岐に分岐している。ディビットにとっても、パーマカルチャーは長年にわたり何度も組織されなおされてきて、パーマカルチャーの実践者は、不可能に思えることに挑戦してきた。国際的なコンバージェンスという、まさに各国から人々が集まり、散ってゆくそのプログラムの中で、人々が変化する機会をつかみ、すべての存在に実りのある場であることを願っている。
デイビッドのこの最後のコンクルージョンを、今後から記事にするために読み、聞きなおしていて、細かいところの意味を取り損ねているかもしれないが、カルチャーウオーという風に言っていたことがずっと耳にのこっていたこと、意味が分からなくても、おそらくUNITEDのこと、人々の連帯と分断について語っていること、目の前の台湾の人の状況に手を伸ばすために語っている言葉であるということは、会場にいて強く感じていた。
特に、このIPCという場が、人々が出会い、それこそ自分のパースペクティブの外にでて、対話し文化の違いを超えて、食、住居、日々の習慣などの普遍的な課題について、変化する世界の中で共通の関心として語り、理解できない他者とわかり合おうとする場だったことを振り返っても、強く腑に落ちる言葉であり、現地に本人が来なかったが、本当に台湾まで行って場を感じられたことは、価値だと実感しなおした。