パーマカルチャー

ブログ45回「なんでこんなにルールが好きなのか・規則・原則・倫理」

人間の行動や思考は変化する要素として、規則、原則、倫理などがある。規則は、私たちになじみのある概念だ。ニュースでは、社会の規則「法律」に反した人の話題や、法律ではさばけないが「社会的な規範」を守らない他の国から来ている人がいっぱいいて、河口湖駅のコンビニが話題になり、トイレが汚いというのは話題やメディアによくでてくる。

規則については、十分意識下にも、無意識下にも社会化されている。西洋の人との印象に残っている会話で、日本の印象は「きれい」「清潔」と並んで[ORDERD]という言葉がでてきて、とても印象に残った。整理整頓されているね、秩序だっているねという意味もあるが、基本義は、《順序正しさから生まれた規律》だ。この言葉を聞いたときに、誰かの命令が、良く行き届いているのだ、といううがった見方もできた。

規則で動くことは慣れているけれども、原則や倫理で動くことは、私たちは慣れているのかと問われると、そもそも規則と原則って何が違うのか、わからない人も多いだろうと思う。それに加えて、倫理といわれると、より分からなくなるだろう。

パーマカルチャーは、日本人の苦手なこの2つの概念が最初に触れることになり、また、中心に置かれている。その機能として、デイビッド・ホルムグレンは、コレクティブライティングの中で、適応する土地の多様性と、スケールに関しての言及をする。規則の機能は、多様性を画一化する機能が強く、パーマカルチャーのような多様な土地に適応する要素の多いシステムを扱うに対して、マッチしないという。特に、思い出すべきは「考えなしのアクションよりも、注意深い観察が大切だ」ということだ。

規則は、多様なものを画一化するという機能を持つが、そのメリットとしては、個々人がいろいろなことを考えなくていいということだ。

それは、多様性のために制服を廃止するのが、いいと思って廃止すると、選択の幅や、明日何を着るかということを考えて学校にいかねばならず、本来勉強に集中できるはずだったリソースが割かれるという、思わぬデメリットがあったということだ。ここで対立しているのは、価値だ。

「学生が勉強に集中することが学校の価値」ということと「生徒が自由に選択できることが価値」という2つの価値が、それぞれ対立する。この価値判断をする上位の概念に、「生徒がより良い学びをする場である」ということが倫理だ。ここまで論じてきて規則、倫理、原則、それぞれのメリット、デメリットを表すのに「価値」でそれらの概念を詳明することが適切とし、次のように仮説を作る。

「規則」は価値が固定されていて行動が規定されている

「原則」は共通した価値から行動が多岐に展開する

「倫理」は個々人に価値判断を求める

「規則」の前提は、すでに価値づけられていることがあり、その判断に関しては、個々人が言及しないということだ。ゴミが散らかされて迷惑しているという話題に共感が欲しいところに、環境活動家が強く批判するように、そもそもプラスチックの生産を行っている企業が悪であり、

日本はそもそもすぐにやめるべきだ。途上国から来ている人が、その代償として日本を汚すのは因果応報だという見方を提示することは、可能ではあるものの、基本的には日本でそのようなやり取りは見聞きしたことはない。基本的には、ごみは捨てるべきではない。という規則は、規則であるがゆえに、価値判断については言及しないとする機能があると仮定していいだろう。

「原則」は、価値が明確で、文脈において様々に解釈して行動していいという幅も大きい。例えば、「畑に資材を投入してはならない」ということが、規則であるとすると「多様性の力を活かす」などがわかりやすい原則の事例だろう。その土地にとって、多様性を構成する要素は違い、またそれをどのように活かすのかも、目的によって変わる。いい原則の事例だ。

「倫理」は、個々人に価値判断を求める。

キリストの言葉を引用させてもらうが「罪を犯した者は石を投げられるべきだ」ということが法による規則の言葉であるとすると、「あなた方の中で、罪を犯したことのないものがまず初めに石をなげなさい」という言葉は倫理の言葉だと感じる。主体を引き受けるのは法であるのか、個人であるのかという転回がここで起こる。規則はむしろ行為の責任が価値判断を行った主体において、個人の行為は免責されるという機能もあるのかもしれない。

倫理は価値判断とセットで「責任を引き受けること」でもあるといえる。パーマカルチャーの言葉では、人々をケアすること、自然をケアすること、平等であることが倫理として置かれているが、時にそれは対立する概念でもある。

同じニーズを持つ人に対して平等に資源を割くことは正義あるが、資源に限りがある中ではそれは難しく、どのニーズを他のニーズより優先させるのかという問いはまた難しい。おなじぐらいのニーズを同じように優先させるべきではあるが、どのニーズを重みづけするのか、だれを優先させて、だれを優先させないのかということは、ケア・平等という正義概念の中で、議論を尽くして意思決定するべきものであり、またその結果の責任を誰かが引き受けなければならない。

こういったことは、規則にしたがって生きる立場である限りは、基本的に考えることを免除されており、取れる態度としては、規則に文句をいうことと、規則を守っていない人に文句をいうことであり、これらは生きていてよく目にする言動だ。

パーマカルチャーでは、よく「消費者」から「生産者」へという形で語られる。現代の社会がリスク社会と呼ばれることは、生産するものがあれば、それは同時にリスクも生産するのだという風に言われる。生産することそれ自体が、リスクを取ることであり、もし何かあった時には責任もとるということだ。

消費者として生きていくことのできる社会においては、正直リスクを取ることは、わりに合わないし、保険などのリスクヘッジには、それ相応のコストがかかる。一方で、価値は他者に決めてもらうということが代償として発生する。

わたしたちが、規則によって暮らすことに慣れているがゆえに「やさいには××をあたえなさい」などの安易な学びを期待してしまうのは、理解しうることである。正義っぽい、正しそうな概念が出てくると、それが正しく、他のひとは間違っているといいたくなるが、そういうものにひきつけられるニーズとしては、自分自身は間違っていないと思いたいというニーズ以上のものはないのではないだろうか。

とはいえ、今の時代、それはそれで大事なことで、価値が多様化する中で、中庸やお金、権力などわかりやすい価値が際立つ世の中になり、多様である人々は、セルフコンパッションのニーズが高まっているのは理解できることである。

しかし、そこから一歩踏み出して自ら、自分の人生において、それがたとえ社会に広く認められているものではなくても、価値であるものを大事にしたい、その責任の主体でありたいと願うのであれば、倫理と原則の理解は、様々な文脈と変化する状況の中で、自分の頭で考えて生きてゆく力を与えてくれるものとなりうるのだと思う。

そういった変化が必要な時にこそ、倫理と原則は規則以上の価値をもつのだ。