パーマカルチャー

ブログ47回「パーマカルチャーのシステム思考と文化の型」

パーマカルチャーは、システム思考とデザイン思考という2つの考え方に強く影響を受けている。僕自身も、パーマカルチャーの全体像をつかみ、海外の文献などを読んでいてもすっと情報が入ってくる感覚となったのは、この「システム思考」についての理解が深まってからと言う感覚が強い。

システム思考は、私たちが慣れ親しんでいる原因と結果が、一つの線で結ばれている直線的な思考では扱いづらいものを扱うことに、長けた考え方だ。

例えば生態系。畑の作物に、カメムシの被害が会った時に、どの農薬を使うと効果的なのか、と言う農薬の理論も理性的で、科学的な知識だと言える。

それが、働くのは一定の条件下でカメムシを排除するための限定的な因果関係の中で、効果が実証され、だからこそ販売されている。また、検索エンジンやAIも何がどのようにカメムシにきくのか、教えてくれるだろう。

スマホから手を離し、畑に出て、みかんを見る。そこに出てくる疑問、なぜ、カメムシはこの木にきて、あの木に来ていないのか、ということは、要素が多すぎてわからないし、自分の観察と推論以外は、誰も答えを教えてくれない。そういう「知恵」を教えてくれる存在は、神様にものを尋ねるのが困難なこの時代に、いないようだ。

ここで、科学的な「理性」というのは、限定的な条件下の短い因果関係のもとで、有効であり「知恵」というは、もう少し広義の問題解決の手法であるとまず、仮定してみたい。

「理性」に厳密に働いてもらうために、科学者は、仮説と実証を用いる。一方で普通に生きている私たちは、この仮説の立て方のセンスや、証明が成立する限定条件の切り方のプロではない。どちらかというと、直感的に因果関係の線が引けそうなところに、クイズ番組の回答者になったつもりで、推論を立てることが、習慣になっているだけだ。

当たり前だが、カメムシがたくさんいると、うまくいかないのをカメムシのせいにしたくなる。しかし、これは本当に理性的な判断というよりも、私たちの思考の癖によって限定された課題と考えることもできる。そして「カメムシがいることが、すべての問題なのだ。」ということに囚われていると、システムそれ自体の変革の考え方までは目が向かない。

たとえみかんが健全で、全て収穫できたとしても、他の農家さんも豊作で、モノがあまり、値崩れすることや、消費者に届くまでに時間がかかると、ロスがでる。在庫がある分を、消費できる人に的確に届けられる形であれば、少量を直販にして価格を上げ、市場に出すのと同じように、売り上げを上げることができるかもしれない。 

パーマカルチャーの慣用句をカメムシで引用しよう。「カメムシが問題なのではなく、カメムシを食べるクモがいないことが問題なのだ」というproblem is solutionという力強い言葉が、私たちの思考の癖から解放し、目の前の課題を解決する「知恵」に導いてくれる、システム思考の実践の応用の在り方を、雄弁に表している。

一歩引いて全体を俯瞰し、一度すべての要素を洗い出してみて、全体のデザインを考えることによって、現状の壁を打破する知恵を、見つけるきっかけともなることがある。こういった「全体を扱う考え方」を「ホーリズムHolism」ともいう。

これまで、理性と仮定してきた、私たちが使っている、原因と結果の因果関係の短い、ものの見方を「還元主義」と呼ぶ。この、還元主義は、近代に発展してきた複数の考え方が根にある。

近代の科学について論じた、ホワイトヘッドは、エネルギー、細胞、分子、進化論の認識を、18世紀から19世紀に台頭してきた新しい観念だと述べる。(ホワイトヘッド、2025)生命を細かい単位にわけると細胞になり、物質を細かい単位に分けると分子になる。そして、それらは原始的な生命から始まり、進化の過程で複雑になってきた。複雑なものも、小さなものに分けることによって説明可能であることが、まるでほかの考え方を排斥するような真理のように存在し、世界の一つの本質の捉え方を無意識ながらに形作り、ものの見方に反映され、問題解決の手法や、日々の思考のくせにも関わってくる。

しかし、今この土台となった考え方が、揺らぐ時代だ。量子論には、まだ未解決で直感的には信じられないようなことが発見され、進化論もより精緻な議論がされ、変わりつつある分野でもある。進化論の基礎として、有機体は、食物連鎖に成り立っていて、基本は弱肉強食で進化論によって淘汰されたものが現在生き残っている、つまりは強くて速いものしか勝たないような単純な理解を、ついしてしまう分野だ。

一方で、過酷な生存競争の果てに、停戦協定を結び合い、共生しているような生物の在り方も存在し、たとえば菌類と藻類が共生する、地衣類が代表的だが、私たちが直感で理解することよりも、複雑なことが起きているようだ。

また、私たちの因果関係を単純な形で引いてしまう、考え方の癖が、悪影響をもたらす事例も徐々に明らかになりつつある。

焼き畑は、地球温暖化に悪だという言説があり、またオーストラリアのアボリジニが草原に火を放つことも、一見悪いことのように思える。

焼き畑に関しては、面積と人口が一定であれば、持続可能な農業であり、むしろ人口増加と山地に生きる少数民族を、自然保護区を制定して、狭い面積に定住させようとしたことなどの因果関係が背景にあって問題となることがある。また、人間が暮らすことは自然にとって悪いものだという、単純な見方で保護区を決め、アボリジニの草原のファイアマネジメントも同じく悪でありという見方に反して、それが以外にも、大きな火事を防ぐための行為であり、環境保全に役立っていたことが、やめさせて初めてわかるということがある。

人間が自然の中の一要素となっていて、機能する生態系のシステムがあるということは、保護区の思想それ自体と対立するため、盲点になりやすい。

例えば、積み木でレンガのような形のものを積んでいて崩れるときに、それはどこが間違えたのか、一つ一つの役割が明確で固定されていたらよくわかる。

一方で石垣のように大小さまざまな大きさの石が何面もほかの石に接していて、それがどのように作用しているのか、複雑にからみあう因果関係の糸をほどけないような物事も、実は現実には多く存在するのだ。

物事を、原因と結果に分ければ、説明がつくという考え方は、18世紀から始まった思考の癖であり、現代を生きている私たちにとって、当たり前で意識できないことかもしれない。

しかし、わたしたちの暮らしの足元にひろがる、日本の歴史や文化は、対立や構造物を作ること、自然の見方に対して、もっと洗練された在り方で接してきている分野もあるのではないかと思う。

日本の文化は、複雑なものを複雑なまま生かすこと、言いえないもの、矛盾するものを内包することが得意だ。

たとえば、石垣を積むような形で、設計図や計画なしにこちらの計画を素材にあてはめるマネジメントではなく、石の形状をみて、こちらの設計図ではなく、石の声を聴き、適材適所に当てはめてゆく「なり」と呼ばれるような現場での感覚や、これまでの経験の積み重ねの上に働く直感を優先してきたようなあり方もあった。

華道などが、特徴的だが、自然の観察に始まり、いかにそれを模すのかを突き詰めてきて、その型を何世代も継承して作り、また時代の変化とともに、過去の文献から生けられた花を引いて、今の時代に適する形に適応してきた文化の一つだ(小原、1971)。

また、農家が16世代続く地域では、田んぼに水を入れるときの争いが起きることが、集落の構造上避けがたい場所でも、対立があったとしても、そこで生き続けるしかなく、善悪2元論で片づけるような近代のやり方ではなく、春と秋に祭りで対立するどうしも顔を合わせ、酒の席のこととして、寛容になるという、生産関係に結び付いた文化の機能としての祭りが自覚的に継承されている地域もある。

こういった「文化の型」は、50年や100年の単位での人間の争いと、その解決の手法よりも、土着の対立の解消の方法と、構造の欠陥に自覚的であり、それを補完するものとして、おそらくはるかに長い間のトライアンドエラーを経て、洗練されたものであるのだろう。

アボリジニの人々の居住と文化は、一度失われたら二度と戻らないように、失われてからはじめてわかるような、機能や役割も多いのだろうが、できることなら、それが失われる前に伺い知り、自覚的で価値を見出せるようでありたい。

いま、多くの地域で行われてきた文化が、都市化と個人の社会となり、その影響で失われるものが多くあるが、私たちは何を失ってきているのかということに、自覚的でないままに、それをすべて失おうとしている。

今、必要なのは、失われていった文化を嘆くことではなく、理性の還元主義の社会の考え方が行き過ぎている時代に、どのように今までの文化を拾い上げて、目の前の生を豊かに生きる知恵を、リデザインすることが求められている。冒頭で上げたパーマカルチャーの「システム思考」の対になる「デザイン思考」がこれにあたるものだ。

自分たちの日々の習慣が文化を作り、また文化も私たちの暮らしを作るものである。パーマカルチャーは、こういった日々の暮らしから、自分たちの生きる文化を作ること、持続可能な農業から、持続可能な文化permanent cultureを作る試みとして、存在する意義がある。

また、パーカルチャーそれ自体も、デザインをする上での理性的なものの積み重ねと、自然農の福岡正信の言葉「自然と対立するのではなく、共に働くのだ」と言う言葉の知恵の側面、両方を併せ持つものなのである。

そして、デザインすることの力強く雄弁な側面は、何かに反対すること、対立すること、声を上げることにとどまらず、自分たちの理想の暮らしや社会を、現実に目の前でやって見せて、実行可能なものであること、違ったあり方を提示できることにあるのだ。

参考文献

ホワイトヘッド『科学と近代世界』上田泰治・村上至考訳、中央公論社、2025

小原豊雲『小原流様式集成』小原流文化事業部、1971

2025年3月19日