ブログ48回「近代化と自給自足」-執筆途中-

自給自足について考えるときに、その対に「福祉国家」をあげる人は少ないと思います。普通、消費社会や資本主義社会、食料自給率の低さなどが、イメージされるとも思います。こういったイメージが対置されるからこそ、自給自足には持続可能性の夢や今ある社会の理想、すでに過ぎ去った理想となった共産主義の夢などを掲げ、パーマカルチャーにたどり着く人もいるでしょう。

一方で、今私たちが暮らしている近代国家は、福祉国家であって、村ではない。自給自足は、福祉国家の中で小規模な土地を持って、そこで十分な食料を自給しながら、公共の福祉サービスを享受しつつ、叶えるものという理想というものが、イメージと現実のズレを生んでいます。

そのあたりのギャップを埋め、適切な課題、つまり福祉国家に暮らしているのであれば、公共の福祉に資する社会の共通の基盤や富が、いろいろな形で失われて行っている現実を直視したうえで、考えて行動したほうが世界の文脈からすると適切であると思います。

僕が参考にした「近代」というものを見る視点として、渡辺京二『近代の呪い』和田信明・中田豊一『途上国の人々との話し方』トニー・ジャット『荒廃する世界のなかで・これからの『社会民主主義』を語ろう』の3冊強く影響を受け、その中の文章も参考にしつつ、考察を勧めたいと思います。

まず、そもそもパーマカルチャーが今の時点でも、自給自足について有効な手段と語られているかというと、どちらかというと自給自足(セルフリライアンス)よりも、自分たちの手で自分たちの暮らしをつくる(コミュニティリライアンス)というかたちで語られることが多い。そもそも、冒頭で私たちの暮らしている近代の福祉国家の中で一人だけ自給自足することを取り上げましたが、前近代的な社会は、コミュニティの相互扶助と、人間を養えるだけの生産性を持つ自然資本が持続することの2つによって成り立っています。そして、それは一人で成し遂げられるものではなく、共同体の存在が不可欠になってきます。その様子は、途上国支援の自給の生活を送っている人々のところの国際支援の文脈で語られており、急激な人口増加と、共有地の自然資源の劣化のスピード、土地へのアクセスの問題が複合的に重なって、共同体での暮らしが持続不可能となり、貧困となるというプロセスを描写しています。

持続可能なその過程に入り込んでくる近代化は、村落で自給していたものを、共有地の自然資源(土地に紐づく樹木、土地、鉱物、石炭など)を後戻りできない形で換金してしまい、資本によって人を雇う仕組みが登場すると。いったん雇われ働くこととなってしまうと、教育が必要であり、教育のためには、学校へ行くこと、学校へいき大学に行くためには資本が必要という形で、自給作物ではなく、換金作物をつくるようになり、そうすると普段食べるものは買ってくることとなり、生活の必要を外部から貨幣で調達するという、近代化の流れの要点を抑えた形で『途上国の人との話し方』では、描写しています。

さて、それでは日本の近代化の流れにもどって、みるためには、100年前の過ぎ去った時代のことから入るほうが正しいかもしれません。そして、近代化は、自由、平等、人権などの基本的な大切な考え方とセットだったはずです。そしてそれは、近代以前の社会にも、形は違えども、見出せるものであったとするならば、どのように近代化以前の社会と、今の社会をとらえたらいいのでしょうか?

ここで『近代の呪い』の渡辺京二さんの言葉を引用します。

民衆世界の自立性というとき、それをいわゆる共同体に直結してしまうのはよろしくないと思います。共同体は成員の生存を保障するかわりに、強い規制を成員に課します。民衆の共同というのは、いわゆるムラ共同体のような社会の約束事、生きるための装置だけを意味するものではありません。民衆にとっても共同体とはいまでいう滑り止め、セーフティーネットみたいなもので、そういう外的な枠組みのほかに、民衆の心性、生活習慣・伝統に根ざす共同というものがあるのだと思います。そしてそれは、個人の自発性・能動性であえていうなら創造の力でもあると思います。

途上国などの農村と今の近代の違いを「セーフティーネット」という形でうまく表しています。私たちの暮らす社会には、いろいろな形でセーフティーネットが張られ、人々のニーズを叶えています。一方で、このニーズは発生し続けるものの、それを平等に重み付けすること、また同じようなニーズに対して、同じような重みづけをすることが難しいという性質を持ちます。また、分配できるような社会のリソースに限りがあるのであれば、すべてのニーズに同じように答えることもできないという矛盾を抱えたまま、社会制度は存在しています。一方で、渡辺京二さんは、この共同体や自立をセーフティーネットという暮らしの利便性の向上についてだけではなく、自発性、能動性という価値や意味に触れる部分にも言及します。

自立した民衆社会とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむのかよく知っていて、そのことの上に成り立っている社会なのです。そういうことについて自ら苦しみ自ら考え、先輩・同輩のいうことなすことをよく見、よく聞き、それぞれ自得するのであって、そういうことに関してお上や政府、学者や言論人から世話を焼いてもらう必要がないのです。

 私たちが失っているのは、この相互扶助のコミュニティということだけではなく、その生活の創造性をも失ってしまっていることです。自給自足や生活の便をこの時代に取り戻す形は難しいかもしれませんが、自分が何を欲し、何を愛して生きていきたいのかということを、自分自身の手に取り戻すことは、とても大事なことなのではないでしょうか。また、私たちのニーズを叶え、ケアを提供してくれるはずの近代は、より人々が自発的に創造して暮らしていくことよりも、インターステートシステムの中の自国の地位をめぐって、国民国家をより強固にしてゆく方向になり、人々の生活の価値ということや自立性、創造性を育むこととは真逆に進みつつ、いままで築かれえてきた、社会の資本を切り崩す形で動いて行ってしまっています。