ホリスティックデザイン・全体のデザインと焦点の動き

畑をしたいという相談が来るときに、まず確認するのが料理をするかどうかということだ。デザインが人のニーズを満たすものだとすると、食事というどのような文化を持っていても食べ物はほとんどの人にとって必要不可欠な普遍的なニーズであり、食料をつくることはだれにとっても必要な手段に思える。
一方で、わたしたちが暮らしているのは福祉国家であり、飢餓がおこらないようにありとあらゆる努力をしており、政治的な不安定な場所や紛争や戦争、ジェノサイドなどによってであり、どちらかというと、量的な不足よりもインフレによって安全で栄養価のある食べ物に対しての獲得能力に貧富の差がある世界だと捉えておいたほうが正確だろう。
さて、自給自足のイメージから畑をしてみたいと思う相談もくるが、ここで欠けてはいけないのは少し引いた全体の視点だと思う。
全体のデザインと僕が日本語で言っているものは、パーマカルチャーではホリスティックデザインという言葉で語られることが多い。直訳すると全地球カタログ(ホールアースカタログwhole earth catalog)の全体をしめすWholeとおなじWholisticという言葉だ。
今暮らしている社会では、分業化が進みデザインを作るうえでの「専門家」が多い社会となっている。林業は野菜を生産するよりも木を生産して野菜でもセロリ農家などの一つの作物を作る単一栽培が多い。それもそのはずで、大きな機械を導入して効率化しようとすると、例えば10年同じことを続けてその投資分が回収できるという算段をつけて商売を始める。そのため、機械も細分化しており例えばアスパラガスの長さをそろえるための機械のようなものも存在する。
そのような背景の中、建築のフィールドと、生態系のフィールド、人間の行動のフィールド、それらをすべて統合してデザインを自分のために書くというところがパーマカルチャーを学ぶ醍醐味だ。もちろん、それぞれの分野で必要な知識は違うし、例えば一回家を建てたらそれをメンテナンス時にその知識は役立つかもしれないが、何個も家を設計したり立てたりすることは少ないだろう。
また、全体を考える上では、時間とともに変化が起こると考えたほうが自然だ。デザインのフェーズによって、建築に集中するときや、地形や大きな樹木を含めて設計するフェーズとそれらをメンテナンスするフェーズに分かれそこで必要な個別具体な技術論は、またさらに細分化される。そう考えると、それぞれの専門家がそれぞれの領分に集中することも理にかなっていることだ。
全体を考えるときに注したいのが、変化とともに焦点が動くことだ。例えばパーマカルチャーという言葉を知ったきっかけが農や自然という焦点であったとしても、自分の生活や関係性をデザインの視点から改めて振り返ってみると、作物の自給が重要な焦点でなかったということに気が付くことがある。
畑をしたいという時に料理をするか聞くということは、野菜を作るのはお金を払って消費する趣味というよりも料理をする習慣とセットであり、取れすぎたときに加工することや配る友人がいるかどうか、また必要なものを必要な量だけとれるようにマネジメントするということも含まれている。
ちょうど秋ごろにこの文章をかいているが、春に市民農園を初めて、夏の炎天下に畑にいくことができずに、秋に様子を見に来たらいわゆるひっつきむし、センダングサにはたけが覆われてしまっていたということから諦めてしまうということも目にする。
とはいえ、自分が今まで経験していないことも含めてが全体のデザインであり、一つずつやってみてその感触を確かめてみること、そしてそれが失敗ではなく焦点が変化するものだと理解することは、失敗しないこと、挑戦しないことよりも不可欠な原則だと思う。