対話と共同体の不可能性、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない共同体』
今、何かの理想を掲げている人々が対話しようと思うととても難しい状況だと感じています。それは自然環境のために、地球のためにという言説を扱っているとしてもあまりに生活環境や文脈、身体知や経験に基づく言葉が違いすぎ、僕が経験したテーマでは、特に自然ということを同じ文脈や背景と技術を共有して語るのは難しいと感じる経験がありました。
僕は、幸いガイドという仕事の中でありとあらゆる国の人と何かを話すことがあり、深く対話する形になると政治や国際情勢、社会やお金などいろいろなテーマを扱い議論する機会に恵まれています。
どういう主張の人も深掘りながら話を聞くと、一見自分の常識からは信じられないような世界観の人でも何となくそれぞれの事情のようなものが見えてくる経験をしました。
そういった、それぞれの事情の何となくの理解に至るまでには、相当めんどくさいプロセスが入り何となく全体のバランスを見てしまう僕は「こちらからみるとこうやって見えて反対からはこうやって見えるよね」という形のめんどくさい語りと思考をする癖がついてしまっています。
僕は何となく両方の主張がわかるが、語り方も対話のスタイルも交わらないふたりがお互いのことを理解しようとしている場にいた時があり、その場のちにそれぞれの話を深く聞いた経験がありました。
自然や地域、いいこと正しさなどの焦点のもとに人々が集まろうとすると、間違っていないことが故に、反対する理由もなく多くの人を引き付けることがあります。一方で、ぼやっとした観念論でつながってしまって相手の背景や「言葉の使い方に結びつく身体的な経験」を欠いた上で同じ言葉を使っているとよい形のコミュニケーションが生まれないことが多いと感じます。
これから、AIが書いた文章とAIで書いた文章のやり取りが増える中で、対話をする言葉を持つことが、より民主的に万人に開かれる未来がどうしても想像できないのです。
以前、完璧に人のことを理解することはできないのではないかと友人に問いたときに、ワークショップに参加して全員一致しなければならないときに、一人だけ合意しなかった人の話を夜通し聞いたら、お互いが何を考えているのかをかなりの解像度で理解することができたという経験を聞いたことがありました。
そういった場に耐える根気や物理的な時間を確保すれば理解はできるのかもしれないという時間と身体に結びつく形であるのは一つの希望だと感じます。
一方で、人のことが解像度高くなればなるほど、人と人の違いは際立ってしまい交わらないのではないか、厳密に共同体をつくることができないのではないかという恐れもあるのです。
冒頭の『何も共有しない共同体』のことをその時に思い出しました。人はコミュニケーションの上では共同体を作れないし、対話を重ねること言葉を発することが意味をもたないのではないかという根源の恐れに対しての可能性を開くための考察なのではないかと感じました。いくつか引用してみます。
『コミュニケーションは、暴力の別の手段を使った継続とみなされる。主張と反論によって進行するコミュニケーションの弁証法的なリズムの中に、各人が他者とは別の存在となり、自分の語ることの正しさを確立するために話しているのがわかる時がある。自分自身の正しさを立証しようとして話すということは、他者を黙らせるために話すということである。しかし、ソクラテスは最初から、自己の正しさを立証する可能性を除外していた。コミュニケーションとは、他者、対話者ではなく外部の者、すなわちノイズの権化である野蛮人を沈黙させようとすることなのである。』
『私たちは、メッセージ、財、サービスの交換を通して交流し、合意を示す握手によってつながるかかわりあいの形式を社会と呼ぶ(中略)合意が構想され、形成された後に、両者を結びつける握手の中で、合意とは何か別のものが伝達される。それは親族性の確認である。(中略)人が親族性を認めるのは、「家族的類似性」を認めることによってではない。親族性の承認とは義務の認知である。』
『さまざまな形式の社会で有効に働いている、こうした親族性の承認の彼方には、それとは別のものが存在している。すなわち、何も共有していないものたちの、あるいは何も作り出さない者たちの、死すべき運命において見放された人々の友愛である。(中略)親族性を越えたところにあるこの死の共同体を見つけるためには、私たちは、親族性から最も遠い地点にある状況に、自分自身を見出すか、想像力を使ってそうした状況に、身を置いてみようとしなければならない。』
僕自身も、うまくコミュニケーションできないという経験は多くあり、また話すのがうまくない、コミュニケーションをうまくできないという人の話や感じていることを感じる経験のそこには、その言語で構成される仲間に入れている、入れていないという感覚がどこかあったように思います。
それは、言語にまつわる身体経験の情報量の多さは「ノイズ」をどれだけ感受できるかという感受性のズレにおいて、また言語自体の機能に外部のものを作り出す機能があるというリンギスが描写する2点からよりその輪郭をはっきりと詳明することができるのではないでしょうか。
特に、正しさにまつわる言説は例えばそれを信じることができるかどうかという「信仰」とその論拠の濃淡によって外部を黙らせる機能によってその輪郭をはっきりと形作るということができるのかと。
対話ができ、合意までできる他者とどこまで言葉を尽くして合意するのかという細く長い道を行く方向が一つ。また、リンギスがその可能性を自らの身を置いた旅の経験から描くように、何も共有しない者たちの共同体に思いを馳せるのが、この時代で言語の持つ罠にはまらずに行く可能なもう一つの道かなと感じます。
参考文献アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳、洛北出版、2006年p.102 p.195 p.198