パーマカルチャー

ここが持続することの価値がなくなった世界で

【思考停止しがちな世界の焦点をどこにあてるか】

年明けから、国際情勢は不穏な動きがある。こういうことはどこから考えていいのかよくわからず、思考停止になってしまいがちだ。

100年前の時代と今の対比をすると、一人一人の人権と自由が不完全でありつつも拡張されたことが今の時代だ。これは、一人の人が人間らしく生きていけることへのある種の理想への途上としてみることもできる。コミュニティが機能しなくても、一人で生きる人がものすごく悲惨な生を送らなくて済むようにしてくれるのが福祉国家だ。しかも、これに所属するかどうかですら究極のところ強制はされていない。

今、不完全ながら人々の暮らしの基盤を提供している国家間での安全も保障されなくなっている時代へと入っている。そして国家間の格差ももちろんあるし、国家が守らない人もいる。だからこそ、一人一人の人間を中心として人権や安全を考える人間の安全保障という言葉もできた。

とはいえ、途上で不完全であったとしても、国家には自分たちの大事にする価値を築く足場を提供する機能はある。そういったそもそもの足場がなくなる危険のある時代にも入っているのだと思う。

国家のスケールの課題であると私たちの暮らしからあまりにも遠いので、もう少し近づいた形で社会を考えたい。課題の焦点を分業の社会として今の時代が得てきた自由と課題を考えてみる。ここから考えるきっかけの足場を築いてみたい。

【私たちのライフスタイルを分業の社会としてみる】

まず、分業の背景から考えると100年前の多くの人が農村に暮らして自給的に暮らしていた時と対比するとわかりやすい。

100年前と違い、人口の過半数の人が都市・地方都市に住むことによって、自然との境界から遠い暮らしを得ることができるようになった。これは、自然環境や四季というままならないものに人間が合わせなくてよい豊かな時代であるということだ。

自然の間で生きることは自然に自分たちが合わせるしかなかった。たとえば雪が降れば農作ができない地域に住んでいれば、なりわいをこちらが合わせて変えるしかない。今私たちが人材市場によって享受している職業選択の自由が薄いということだ。

つまり百姓とは一見するとなんでもできる自由がありそうだ。しかしむしろ「一つの生業だけに集中する」自由が少なくなっているという穿った見方もできる。自分の衣食住を自分で面倒を見なければならないということは一見自由なようである。その実は、小さなタスクがいくつも増え場所も時間も細切れに要求される。まるでペットをたくさん飼わなければならないのと同じように制約も多い。

分業の社会の良い点の一つは、自分の衣食住にまつわる様々なタスクを自分自身でケアしなくてもよくなったことだ。それは同時に、暮らしのニーズが自分の専門とする労働で叶う。だからこそ、いろいろな人々とうまくやって協働することがなくても生きていけるようになったことでもある。

しかし、一方で自由になったときに、ではここを離れてどこに行きたいのかという問いが立ち上がる。そして「ここ」が持続することに価値を見出していたという、語られざる価値が相対化されることとなった。

【分業の社会と自由】

100年前と比べて、今の社会の恵みと、何を失ったのかを考えてみたい。私たちが今享受している職業選択と移動の自由という二つの恵みは、豊かな社会の可能性を開いてくれたのかもしれない。一方で構造としての困難さも生み出した。困難さとは、価値の課題だと思う。

今の時代は結果として、強制的に他者や自然というままならないものを相手にしていた時と違い、一人で生きてゆくだけの自由を得た。しかし、その権利を十分に使いこなせているといえない現状があるのではないか。そして、つかいこなせない自由こそ本当にままならないものはない。

どの価値をほかの価値よりも優先させるかということを、個々人が決定できる時代である。そして対話を通じて共同体で決定できる原則が民主主義であるはずだ。しかしその前提にこそ、難しさがあるのだ。

これまで、自然や他者がままならないものであった。しかしいまは、自分自身で価値を決める自由というものが新たにここに加わったのだろう。これまでこの論考でみてきたように人間は、こういったままならないものを嫌う。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』は1941年の有名な書籍も存在する。そしてそういった自分自身の価値を誰かに決めてほしいという衝動がある。

今私たちが享受している自由、共同体からの自由とは、共同体が重視する価値以外の価値を個人で信じることができるという自由でもあり、そしてその裏側には「この共同体が持続することに価値を見出さない」ということが含まれている。ここに、対話に加わらないという選択肢や私の価値を誰かに決めてほしいという願いも同時に存在することになるのだ。

100年前の暮らし、自分たちのことを自分たちで面倒を見てある種の自律があった社会と比較すると、この共同体が持続することが価値であるということがあった。そしてその基礎となる「持続」という価値の上に諸価値をそれぞれが載せていくという構造になっていただろう。

私たちは今、自分で選択した価値を中心とした共同体を、自らの手で築くことができるような自由があるようには思う。しかし、それは生業と地域を共にした共同体のように「ここが持続することの価値」を以前のような強度で作りえない。だからこそ、対話の場を強制され、それぞれの価値の間に立つことや、間をとることの必然性が弱い。

共通の価値を見出す方法を、それまでよりも強制力が弱い連帯の中で探し、言葉にし、対話し、大切にしていかなければならない困難な時代になっていると思う。人々が人間らしく多様な多くの人と共に生きていくために、それぞれの価値のあいだに立つ力がまず必要だ。そして、昔、共同体が持続することが価値であると見出していたぐらい切実に、誠実な対話が始まった場に価値がある。

それがたとえうまく語られることでなかったとしても、どれだけ賭けであったとしても、誠実な対話が始まった場に強く焦点を当てることに意味があると思う。