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科学・宗教・価値

  第1章:科学の位置:仮説・反証可能性・価値への限界

科学、宗教、価値。この三つは簡単に語るのが難しい領域だ。なぜかというのを、少し考えてみたい。どこから考えるかと言えば、「それがそもそも答えの出る問いなのかどうか」を見極めることが、一つの糸口になるのではないかと思う。

そう、これらの問題は、忙しい我々にとっては放置されがちだ。だが、この問題は今浮き上がってきたことではないだろう。むしろ、今ほど人間が飢えて死ぬことがない時代はない。

答えのない問いを考える余裕がなかったのは、いつの時代の同じだったように思う。

しかし、それを日々習慣的に毎週末や折々に触れて考える機会、そして人の死を通じてそういった問いの入り口に立つ習慣を作ってくれる機能があったものが社会に存在している。

そう、それが仏教やキリスト教、ユダヤ教などの礼拝や仏門の説法などがそうだ。無理やりに断定してみると、機能としての宗教は週に一回答えのでない問いに触れる機会を提供しているとみることもできる。

しかし、現代、宗教からも人々は遠くなっている。いっぽうで現実社会には、価値の問題や倫理を考えた方がよいことも多いし、意外に身近なところにもその問題が存在している。

科学、宗教、価値。ここでは、それぞれの「価値」や「正しさ」を整理するのではなく「位置」を整理したい。

まずは、科学とは何かを問いたい。私たちは科学や宗教という言葉が日常的に使われる時代に生きている。昔は、哲学も宗教も科学もはっきりと分かれていない時代があった。

また、地動説、つまり、地球が回っているということが信じられない時代があった。地球が回っていることと同じように目に見えないものも信じることは難しかった。

微生物や目に見えない生物の働きよりも呪いや魔法、神々といった方が説得力のあった時代があった。

さてこの科学というのは、改めて考えるとなんだろう。科学の説明の仕方というのは哲学によって、『反証可能性』という言葉で語られる。

つまり、それが反論されうる余地を残していてそれがされるまでの仮説の集まりだということだ。

これを知ったとき、僕は科学とは仮説のあつまりであり、事実ではないのかと少し驚いた。しかし、落ち着いて考えてみるとすごく身近な例で事実が変わった例があるので紹介したい。

富士山は、3つの層で構成されている。小御嶽山、小富士、新富士の3つだ。そして、それぞれ溶岩の質が違い、岩石の色も変わる。

そのため、富士山の色が違う部分は、昔は古い地層だと考えられていた。それがどこかというと、静岡県側から見た大きなクレーター、富士山の宝永山だ。

たしかに、黒や赤の山体の石の色と違い、赤茶けた色をしている。また、成分的にも古い地層と似通るところがあったので、噴火の影響で古い地層が顔を出しているのだという仮説が科学的な事実となっていた。

しかし、これはつい数年前に噴火によって形成されたものであって、昔の地層が露出しているわけではないことが説明された。砂場の砂を掘って山を作ることを考えてみると納得しやすい。

上の層の砂が山の下にきて、下の層の砂が上にくる。そのため、昔の山体の成分が地表面にきていることは、不思議ではないということだ。これが、僕にとっての「科学的事実」が仮説であったという原体験だ。

第2章:価値・倫理の領域:当為命題・社会的判断・答えのなさ

科学には、この反証可能性のある仮説であり、例えば価値の問題に踏み込むとそれは科学ではなくなってくる。というのは、価値はだれにとって大切なものなのかということによって見方が変わるからだ。

そのため、反証可能性と価値の問題は相容れない。これは、事実を扱う命題と、当為を扱う命題として整理される。幸福とは何か、価値とは何かを問うのは、哲学であり倫理学である。

哲学は当為命題を探究する学問であり、明確な答えを持たない。一方で現実社会では、科学的問い以上に、倫理的・価値的な判断を迫られる場面が多い。

というのは、人々から預かった税金を「みんなが幸福になるように」使わなければならない。みんなが幸福とは何か?どうしたら不公平にならないのか、それとも多少不公平であっても、ひどく悲しむ人がいない社会の方が、価値がある社会なのか。そう、ここで「価値」という言葉がでてきた。ここで言う価値の問題とは、当為命題の問題である。

多様な人たちが暮らす現代において、私たちの暮らしを作るうえで「答えが出なくても多くの人が考えるきっかけをつくる」「それぞれの立場から議論に参加できるような土台を整える」ことは、とても大切なような気がする。これが、倫理学や哲学が存在し価値を見出されている大きな理由でもあると僕は思う。

しかし、この問いを問い続けるのは大変だ。冒頭で述べたがなぜなら答えがない。そしてそういうことを問い続けると、なぜこの世界が始まって、私たち生命にはどのような価値や目的があるのかということまでたどり着いてしまう。その地点で宗教は、世界の説明と価値の根拠を物語として与える。

ここまで、科学、哲学、宗教の3つについて、倫理と価値の側面からそれぞれのアプローチを論じてきた。科学は、反証可能性において価値の問題には踏み込まない。また、宗教は信じることにおいて倫理の基盤を整備し、哲学は問い続けることにおいて倫理の基盤をつくることを確かめた。

宗教においても、哲学においても大切であることは、倫理的に人間が行動できる基盤があることだとこの哲学的断章における焦点を明確にしておく。

この倫理の基盤を信仰という形で整えるか、もしくは哲学や倫理学のように、問い続ける態度を倫理の基盤とするかおそらく二つのアプローチがあるのだとおもう。

第3章:宗教の位置:意味付与・倫理の基盤・危うさ

そして問い続けることに疲れた人間が、意味と価値の確かな根拠を求めるとき、宗教はひとつの強力な応答として現れる。人間はしばしば、自分に都合のよい解釈を拡大させ、行き過ぎた自己中心性に陥る。特に、行き過ぎた自己中心的な考え方は、自分以外の存在すべてを自分のために使っていいという破壊的な思想に時に至る。

神や自然、倫理といった「強い他者の視点」を信じることは、その暴走を抑えるブレーキとして機能してきた。宗教的倫理が持つこの側面は、無視できない重要さを持っている。

しかし、「考えることをやめる」魅力は今の時代より増している気もする。今の時代のように世界の裏側の人の死が目前のこととして映像で映され、またそれが自分たちの暮らしの日常の消費や生活と直結し、その疲労の中で、思考停止は確かに魅力的に映る。

しかしそこには危険もある。歴史が示しているように、考えることをやめた人を取り込もうと力によって宗教が利用されてきた側面も強い。

また宗教の匂いを排しつつ人々に考えること問うことをやめさせる言説も台頭してきている。信じることの魅力があるからこそ、その危険も直視することが世界と付き合うバランスが取れることだと僕は考えている。

 結論:「他者の視点」を身体化する文化的技術

他者が存在すること。他者との境界を溶かすこと、他者の目線を獲得すること。

これらの日本の文化の中に、「了見」「世間」「お互い様」「のさり」「気働き」など他者の関りの機微のある言葉がたくさん存在する。

それは、概念として存在するのではなく、繊細な感性を持つ主体の生きられた経験としてそれが言葉になっている。この文化の中に沈む感覚を身体化することにこそ、今の複雑な時代で他者と共に生きる具体的な技術が存在しているのだと思う。

これらの技術は、他者と共に問い続けることである。

時に、何かを信じる宗教の視点も取り、その宗教という電車に乗るのではなく、その電車の構造をしることも、哲学や学問のアプローチとして存在する。

大事なのは信仰という考えることを一旦保留にして電車に乗っている人も、その外側から電車の中に乗っている人を見ながらひとり歩き続ける人も、お互いが理解可能である存在であることを忘れないことだと思う。

参考文献 古賀史健 岸見一郎 「幸せになる勇気」ダイヤモンド社、2016

大貫隆『聖書の読み方』岩波新書、2010