自然科学の真理とそれを問い続けることの価値と、心動くことの価値
自然科学の真理は、価値がある。
地球は地動説ではなくて天動説であり、有機物は炭素と窒素をはじめとする元素であり、私たちの体は細胞からなっていて、自然は進化してきたのだということは価値だと思う。
それは、私たちに、例えば、子供が早く死んでしまうことを防ぐことや、合理的な農業の仕方や、科学技術によって石油から様々なものをつくることから暮らしの質を高めてくれる価値のあるものだ。
そして、科学は運用ができることの先には、もっと繊細で微妙で粒度の細かい「真理」が存在する。いままでのものの見方が粗く、もっと機微があり、全体のシステムの中でとらえると不思議だったことが明らかになるという「反証可能性」が存在することが価値だ。それは、わたしたちが「真理を探求しつづけることができる」という価値なのだと思う。
一方で、心動くことは、その人の経験であり、ひとから真理を探求し続けられることから逃れられている。私は、どう感じたのかということは、私にとって、大切にされていいことなのだと思う。ここの真実さはとても大切なものだ。
その代わり、情緒や感情に訴えかけて自然科学の真理や複雑さをまなざすことができなくなった世界も存在する。それは、どちらかというと自然への無関心というよりも、好意によっても盲目になり、現代社会の問題の解決を自然とのかかわりに見出す言説にも見て取れると思う。
自然と人をつなぐガイドという立場からこのことを考えると、常に自然科学の真理に心が動くことこそが大事なのだと思う。それは、自分の頭の中にあることではなく、自然の中で疑問に思ったことを、同じように疑問に思った人が、調べてまとめていてくれたこと。また、自分自身が自然と関わる中で、失敗したり気が付いたり、観察して仮説を立てて証明できたことから心が動くことがとても大切であり、人を育てるのだと思う。
真に人工的な世界とは、人間の頭の中で自然が語られて、目の前の自然からの観察や自然が人間に対して支配的な時間の動き方をしてしまっていることを忘れてしまった時だと思う。私たちが普段触れる自然は、滑らかな情報に加工されたものであり、人間の時間に合わせた形でその接点が持たれているように思う。
一方で、自然の時間に合わせる職業に就く人は、自分たちの所作やコミュニケーションを可能な限りに早くして、人間の経済の時間に自然を合わせようという努力をしている。自然とのかかわりを問う時に、どちらがどちらの時間に合わせるのか、ままならない自然をままならないままに受け入れる用意があるのかということを問われているのだと思う。
自然科学の真理は、時に弱肉強食が基礎にあり、熱エネルギーはヒエラルキーが存在しており、人間の創造を越える災害が起きることもある。だけれども、人間には人間の価値や法、領分があり、そういったものから零れ落ちるものに対する情も存在するところに人間らしさがあるのだと思う。
そして、そういった人間らしさを投影して自然をみることが私たちにもでき、そこに情を感じ、神話をつくり、心を動かしてきて、私たちと共に生きる自然をそれぞれの観察に基づく真理から文化が発展してきたのだと思う。
今の時代、自然と人とをつなぎなおすのであれば、それは情緒や不安からではなく、自然科学の真理と、それを問い続けることの価値が先立っていることが、物事をそのままにとらえることにつながるのだと思う。