自然体験

ティム・インゴルド『教育とは何か-Old ways, New people-』注意・習慣・自由

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―問いの変遷Old ways, new people―

近代の社会が大きくこれまでの形から変化してゆく局面だ。不登校の子供が多くなることも、乳幼児の段階からタブレットを触れる環境にあることも2000年初めにはなかった。

そして当の子供達自身にもAIの存在が将来の見通しをつかなくさせ、自分たちの未来にできる仕事が大きく揺らぐ中で子供時代を過ごすことが目の前で起きている。

探究学習、子供のエージェンシーなど、教育にまつわる様々な概念が出てきているが、教育に関しての社会課題に何か答えようとすること以前に、どうしたら正しい問いを立てたらいいのかにたどり着けるのか悩むような世界だ。

インゴルドの論考は、教育を巡る問いから、古くからこの世界に暮らす人がいるこの世界に、新しい人々をどのように迎え入れるのかという問いにたどり着く。そして、そこに私たちにわかりやすい明確な答えがあるというよりも、情報伝達、注意、習慣といったものを哲学的に問い直す。その問いの道筋をたどってみたい。

―「覚えるのは君自身なんだよ」―


本書の著者はサーミという北欧の狩猟採集民のところでフィールドワークをしていた。多く抽象的な表現がでてくるが、わたしたちの暮らしではないもう一つの文化の生活の具体をイメージしながら読むことで、とても理解しやすくなるように思える。

この本の中にこそ、サーミの人との交流のことはでてこないが『メイキング』という別の本の冒頭に出ていることを読解に先駆けるイメージとしたい。サーミの人と彼が交わした言葉で「覚えるのは君自身なんだよ※1」ということばが取り上げられていた。サーミの人たちの生活、つまり狩猟採集を行って、衣食住を作る生活になじもうとしている彼にたいして、サーミの人々が良く口にする唯一のアドバイスだったという。

―教えること/教わることから離れた学び―

私たちのように学校教育が当たり前にない、もしくはそれを享受できるのが何らかの特権にある人のみに限られる社会では「情報の伝達」は、どのようにして行われるのかということがまず大きな問いとして考えられる。

彼がフィールドワークを行った社会では、学校や本、ラジオや音声、動画メディア、ワークショップなどのいわゆる「教わる場」があることを前提としていない。そして教える人/教わる人があり、伝えようとすることと、伝わることの情報の伝達は全く同じものという私たちの当たり前と差異がある。

私たちの社会のような学校という場がない中で、サーミの人々には何があるのかというと、ただ生活の場がある。狩りをして、衣類を作り、家を作るという実践の連続がそこにはあり、そしてそこには古くからいる人と、新しくいる人がいる。それぐらいシンプルなイメージをまずもちたい。もちろん、ここに先生と生徒という構図も学校もない。

通常は教える側、教えられる側と呼ばれ、ここでは、古くからいる人と新しく世界に来た人という形で語られる。

しかし、インゴルドが強調して伝えていることの一つに、「教える側も共に変化する」ということがある。どのような認識があると、このような変化が生まれるのだろうか。

「もし古参者の知識が新参者よりも優れているとすれば、それは世界のより精緻な像を組み立てられるような心的表象を獲得したのではなく、新参者には単に気づけない環境への重要な特徴へと注意を向けるようにその知覚システムが調整されているからである。」

p.101※2

ここで、教育という言葉の代わりに、注意という言葉をインゴルドが使う。日本語の「注意」が、pay attentionに引っ張られ、怒られる、注意しろという形の使われ方が多い。しかしここでの注意は意識の働きと理解すると受け取りやすい。

どちらかというと、インゴルドはフランス語のattendreという言葉を引用している。フランス語ではもはや日本語の注意からは想像できないが「待つ、一緒にいる、為すところに従う」という意味を含んでいる。

また、英語でも注意性Attentivenessとなると、ケア、配慮ということも含まれる。そのため、教育とは気が散っている子供たちを「注意して」勉強や対象に向かわせて世界についての意識や認識を注入することではなく、むしろ世界との交感に引き入れることであり、世界に「注意を払う」ことだという対比のしかたをしている。

暮らしの中で具体的に注意を払うものの例として、例えば、動物のさばき方をイメージしてみる。そこに腱や骨などの構造があり自然科学の真理として合理的なさばき方とそうではない形の刃の入れ方が存在する。つまりこれらは、教師がいなくても、モノそれ自体に注意を向けることによって、人間が教育されるアフォーダンスを放っているものである。

ジェームズ・ギブソンという知覚心理学者が提唱したアフォーダンスという概念を簡単に説明したい。例えば赤ん坊がだれに教えられなくても、デコボコの道と平らながあったときに平らな道を進むことや、わたしたちは椅子があったときに私たちはそれが座れるものだと知覚している。また、これは文字や言葉で情報が伝達されていない動物にとっても同じで、私たちが環境のなかで「何か受け取って行動してしまうもの」の存在がある。

動物の解体の仕方を伝える方法としても、不完全な形で伝承されていたとしたと仮定しよう。伝えられたことよりも、どれだけ精密にそのアフォーダンスを受け取れるかということで、新しい人が古い人よりも重要な特徴に気がつけることもあるだろう。また、誰かから教わることよりも、たとえばその人の姿勢や考え方から、原理原則を見出し全く同じ形ではなくても「誰かから学習する」こともできるだろう。

ここではビースタの主要なテーマ「誰かから学習することは、誰に教わることとは根本的に異質な経験である」に注目したい。では、「から学習すること」と「に教わること」の違いとはなんだろうか。ビースタにとって、教えることは命令ではなく贈り物である。とはいえあらゆる贈り物と同様に、それは教師の力から分け与えられる何かではない。(中略)教育に不可欠なこととは、自らがもっているもの、つまり実際のところ自らがそれであるものを「テーブルの上に」置く準備のできた誰かがそこにいるのである。

P.156※2

ここで、私たちが教えるとしている情報の伝達に基づいた「知識」という概念が揺らいでくる。私たちのイメージをでは、人によって知識量の差があり、だからこそ教える/教えられる、というものとなる。そして知識は普遍のもので、変わることはなく、誰にとっても同じように渡すことができるという私たちの固定観念がある。ここで語られるのは、それに反した世界観だ。

教える/教えられる、変化しない/変化するという構図を越えているからこそ、共に変わってゆく可能性があり、このプロセスを「教育」ではなく共有化(コモニング)という形でインゴルドは名付けている。

ここまで、インゴルドがこれまでの固定観念に対して疑義をていしていることを、一旦二項対立としてまとめてみる。

・情報が知識として伝達される
→環境への注意の向け方が調整されている
・学ぶべき場がある
→贈り物として受け取り手が望むときに受け取られる
・教育の場など伝達されたときに受け取るべきである
→多世代がともに暮らす暮らしの連続性の中で受け取られる=共有化(コモニング)

ここまででもすでに私たちが知っているいわゆる「教育」という場から遠くに来たような印象を受ける。

―はっきりとした伝達されるべき情報の輪郭がない中で、ともに変わってゆくこと―


わたしたちが教育や情報伝達にまつわる時に思っている言葉からどのように対比してインゴルドがものを考えているかを見てきた。そして、さらにこれまでの教育や情報を巡る言葉に対して、特に強弱の対比をする形で言葉を置く。「晒されること」「短調(マイナー)の教育」「理解による安心(アンダースタンド)ではなく、共有化による不安(アンダーコモニング)」といった形で、どこか揺れている印象をうける言葉が多く本書の中に出てくる。

ここではその言葉一つ一つの解説はしないが、文化が続いてゆくことは私たちが思っている以上に揺らいでいて、変化しているようにインゴルドはとらえているようだ。文化が持続することは脆弱で微妙なものの上に成り立っていると理解すると彼の語り口を受け取りやすくなるかもしれない。

例えば、口伝の歌や神話を子供たちに語っているときに、それが一言一句その通りに伝えられるかということに関しては、不安が残る。また、動物をさばくなど情報よりも「所作」が重要なことを伝達する上では、それがそのまま伝わるかということも、不安になるだろう。

冒頭の言葉に戻ると「覚えるのは君自身なんだよ」と彼がサーミの人と交わした言葉が響いてくる。それはマニュアルを作ることが文化として存在する「誰がやっても同じような形でシステムが機能される組織を作る」という、今のわたしたちの現代社会が価値とする通念に反している。

だからこそ、そこで持続してきた生活と文化が存在すれば、わざわざ「教育」という形で情報の伝達が行われなくてもいいのだろう。先人が何に注意を向けているかを共にし、また新しい人がこの世界にうまくなじめるかという配慮があれば、教育がなくても文化が持続することは可能だという視点だ。これは「文化の中」を生きることでもある。

しかし私たちは、自分自身の暮らしを作るものが周囲環境からすべて見出されるような「はっきりとした形の文化の中」にいない。そして、生きられる文化がなくなってから逆にそれを取り戻そうとすることに関しての難しさもインゴルドは、言語化している。

「二項対立の一方は、科学者や〈文化〉の人々である。他方の側には伝統知識の持ち主、つまり文化の中の人々がいる。そして自らが何を知っているか知らない後者が、伝統から理性へとルビコン川を渡るのであれば、逆説的にも彼らは自らの知識で自分たちを再教育するために科学を必要とする。(中略)だがまさにその詳説のプロジェクトにおいて、私たちは彼らに――それが先住民の人々であれ、子供であれ――私たちよりも知性の劣った存在という役割を与えてしまう。彼らは自分たちで物事を解決できないがゆえに、伝達されたものへと必然的に頼らざるをえない存在とされるのだ。」

p.52-53※2

今でこそ博物館や民俗資料館、インターネットや書籍、図書館といった設備が整えられた。そして昔の生活のやり方を動画や音声など情報そのままを保存し、そしてそれを伝えることのできるような気になっている。そして、その「情報の保存」の行為にはどこか安心がある。

しかし、そのことによって説明可能になったときに、人々の間に、無知で説明されるべき人/知識があり説明するべき人の構造を作り出してしまうことが一つ。

そして身体と習慣に根差した伝統知識をも、理路整然と説明可能になるように、理性の側からは見えるのかもしれない。しかし、伝統文化は、それを使う身体と環境によって習慣として持続するものである。

―習慣の中に見出される自由―

インゴルドは、私たちが失ってしまった文化の中で生きられる実践「習慣」という言葉にこそ自由を見出だしている。特に習慣という言葉が、為すことと、被ることの間を揺れている言葉であることが、一つのヒントとなる。

習慣ということばは、確かに考えてみると不思議な言葉だ。例えば「朝食を食べる習慣にしている」ということを言う。

それは、私たちが意図していることとして継続されている場合もあるし、意図せずに結果となっていることもある。それをインゴルドは「私たちが習慣を作るのか、習慣が私たちを作るのか」という問いにしている。

これは、確かに不思議なことであるが「私たちがすることは、すべて意図されていることである」という例を考えてみるとわかりやすい。私たちの行動は意図があって「行為するもの」もしくは、意図していないものに分かれるはっきりした世界になる。自分の意思が、世界に対して関係なく進んでいくような印象を受けるだろう。

しかし、インゴルドは習慣は「行為しつつ被ること」と両義的な表現をしている。被ることが直感的に理解しずらいかもしれないが「環境に働きかけること」と「環境から働きかけられること」と理解するとわかりやすくなる。

環境から働きかけられることは、例えば沼地をよけて散歩することを環境からのアフォーダンスを受けているという捉え方ができる。そして、自分自身が環境に働きかけて歩くという側面がある。

サーミの人たちがしている習慣は、私たちと違ってそれこそ暮らしを持続するための習慣ばかりだ。例えば狩りをすること、食事を作ること、衣類を動物から作ること、住居を環境から材料を見出して、多世代で作ること、こういったことが文化の中に「習慣」として存在している。それは、環境から被ることによって、住居や食事の種類や質が制限される一方で、その制限の中で工夫することによって、生活の質が向上するのだ。

こういった文化の道を作ることを、インゴルドは歩くことと小径をつくること、後に続く様々な世代がそこを同じように歩むことを見たてて、この文章を書いたのかもしれない。Old ways, new peopleという表題を深く理解できる一文だと思う。

「だが、歩くことによって作られる小径は、強度は様々であるにせよ続いており、いつもその目的を越えてゆくのであって、自由はまさにそこにある。これは有限の選択肢から選ぶという選挙じみた自由ではなく、あるいは――経済学の形式的な定義のように――希少な手段をいくつかの目的へと配分することでもない。それえはむしろ即興の自由であり、環境の変化に応答しつつ進みながら経路を見つける自由である。小径が提供するのは、目的地の選択ではなく、永続的な始まりであり、立ち位置を選ぶ自由ではなく動きであり、交換し相互作用する自由ではなく成長と交感である。

p.132※2

私たちの暮らしは、インゴルドがまさにサーミの人々の暮らしに参与観察をしていったような暮らしの形は、今はほとんど私たちの社会に見出すことができない。

世代を超えてともに暮らし、そしてその知恵が暮らしの生産関係に基づいて注意を向けられ、それぞれの世代がそれぞれの世代に対して身を乗り出し、知識を共有化する場もまた少なくなっている。

私たちの世界はそれこそ、選択肢を最大化するような自由を求めてきたかもしれない。お金があれば、どこで働く、どこで暮らすということが最大化されるような交換できるような自由を価値としてきた。

しかし、ここで語られることは、選択肢を増やすというよりも、習慣を生きること、つまり選択肢から出て「ここに生きること」である。一見そこに選択肢を最大化するいわゆる自由はないのかもしれないが、その過程に変化が存在し、他者と環境と交感し、自分が成長して変化し持続してゆくことの自由を彼は雄弁に語る。

それは、ただ生を送る(living life)という言葉に対比させて、導くように生きる(leading life)という対比をインゴルドはしている。個人的に選択肢を最大化することではなく、人々と共に生きることがleading lifeには含まれている。

文化が持続することは、まさに人々が歩んできた小径を後から歩む人が続くことであり、そしてその歩みは意図されているものではなく、歩きながら考えられるものである。それぐらい、変化して、弱く、不安定な場所に持続することはあるのだと思う。

同じように、続いてきた文化も世代を超えてそれが続くかわからない「弱さ」に晒されているともいえるだろう。これは、普遍的で持続する「知性」と私たちが価値を置いてきたものと違った文化の持続へのまなざしである。

※1ティム・インゴルド『メイキング―人類学・考古学・芸術・建築-』訳金子遊・水野友美子・小林耕二、左右者、2020年。

※2ティム・インゴルド『教育とは何か-Old ways, New people-』古川不可知訳、亜紀書房、2025年。

2026.8/30