自然体験

表現と確かさと原体験

子供たちへの自然体験や、大人の自然体験のプログラムを考えるときに、「原体験」ということを、友人のガイドと話すことがある。

環境教育は、余暇や純粋なエンターテインメントと違い、「楽しんで帰る」という以上に自然を編集して、人に見せる仕事であるためだ。編集してメッセージを伝えるという行為には、表現と作家性が否応なしに伴う。

富士山が「芸術と信仰の源泉」という文化遺産になっており、人々が絵にして書き、多くの民話や伝説、物語が富士山を表現の源泉とした対象にして作っている。表現は、人が感じた感情や情感をほかの人が追体験できるようなものだ。本を読むことや、芸術作品、落語を聞くことなど、時代を超えてその時に生きていた人の体験と感情を追体験するものであり、それが生きることの力になるものでもあるのだ。しかし、それは追体験であり、その人自身の個性や作家性とは別の問題である。

伝えたいメッセージは、消費されるエンターテインメント、消費に乗りやすい楽しい、きれいということや、自己実現の経験ではなく、自分自身の「確かさ」から湧き出てくるものであることが、誠実なように感じるし、次の世代に手渡したいものとして作っている。自分自身が何かに救われた経験であったり、強く肯定される経験であったり、希望を持ったことや、意味があると感じている原体験であり、生きることの足場になるような経験こそが、消費的なものよりも残す価値があると思う。

 すべてのものが、値段が付き、今や消費されるものになってゆく世の中になって「確かさ」は、得難い経験である。人と接して対話する中で、感じた感情や自分が自然の中で感じた感情は、大切なものであると感じる。このように何か表現する、それが自分自身については離れないものとしての作家性を持ったものにすることを真摯に考えると、自分が表現する、何かを人に伝える、そして自分の中の良い経験や感情を出そうとする行為となると「自分自身が感じたこと」は、自分だけが感じた、確かなものである。

VUCAの時代、変動的で、不確実で、あいまいで、複雑といわれる時代、正義や正しさがいくつもあり、倫理的な課題に板挟みになるような時代には「確かさ」の果たす役割はとても大きなものになっている。それは、人から与えられたものではなく、自分自身がした体験と、そこで感じたこと、それを足場にして、自分の中から表現として出てくるものに初めて、その人の個性や作家性が表現に付与される。

その人個人にしか持ちえない感情でも、人間の感じていることや、名前や言葉が付かなくとも体験したことやそれに湧き上がる感情は、理解可能であるし、どんな人間であっても、おそらく大きくは違わない。そのため、自分自身が感じたことが表現となった時に、個性を持ちつつも、共感を生む独りよがりのものでなくなるのだろう。

そういった行為は、大学の時に論文を書くこと、高校で今盛んに行なわれている、探求学習など一見強要されていることでも、自分自身の原体験や興味関心を棚卸して、表現してみるという構造である。その内容や、そういった行為の意味と価値の伝えられ方を無視して手放しに制度を肯定することはできないが、生きてゆく力を得るきっかけの一つとなる。

私たちの扱っている自然は、日常から離れて自然の中で過ごすことという一つの原体験の多様性の宝庫であり、自然の中で遊んだ記憶、特に役割や意味もなく遊んだ時に、五感で感じたものの記憶は強く残っている。子供が気軽にはいることができない、タフな自然や原野が広がり、空地や虫取りが気軽に入ることのできる草原や小川、田んぼ、里山などの余白としての気楽な自然が少なくなっていることは、そのまま原体験の多様性が少なくなることだと感じている。また、私たちが行っている自然体験も、あまりにサービスとしての力が遊びや生活空間において支配的になってくるよりも、気楽に行くことのできる自然や身近な自然で遊ぶことを力づけるきっかけの一つである方が、健全な社会だと思っている。

そのため、自然環境のことを伝えるうえでも、自身の作家性が作る物語が本質である、これが価値であるというメッセージではなく、メッセージはより普遍的なものになる。世界の肯定や、価値の肯定や、多様性の肯定をするものによって来る。世界には素晴らしいこと、出会うべきものがあるのだ、多様なものがあることは、美しいことであるし、その中で生きることも意味があることなのだというそういった大きなメッセージが、根底に、強くある。

こういったメッセージは、字面だけでは、当たり前のことのように感じられる人も多いかもしれないが、私たちの日常や社会には、社会や世界は戦争や殺し合い、貧困がある悲惨なものであり、日々さらされる競争や成果によって単一の正しさが主張され、世界には出会うべきものを探しに行くのではなく、もっとこれに注目すべきだという広告が社会の中でかなりの質量のメッセージを発していて、なかなか当たり前のことのような、これらのメッセージを伝える人が少ないように感じる。

私たちは、自信が感じた原体験を伝える仕事、特に自然環境の上で仕事をしているが、そういったことでなくとも、自分自身の原体験やそこでの感情を探して、それを大切にすること、それを誠実な形で誰かに手渡そうと表現する人が、多様になっていく世界になるといいなと思っている。そういったメッセージを伝えることは、誰かの生きることの足場や力にもなる大切なことだと思っている。