UNITEDについて

多様なものと共にいることと、境界を超えて届く力

多くの物事に対して、人間は境界を引いて世界を見ている。

学校や、地域、何かのプロジェクトでコミュニティを作るうえでも、コンセプトがあって、中と外の境界線を引くことによって、そのコミュニティを成り立たせていて、それがないと安心、安全の空間が作られない。普段は、わかりやすくレッテルのイメージを張って、人間や生物を区別し、分類し、それが基礎になって世界を理解している。

多様性というのは、世界の在り方であって、人間がそれをちゃんと理解する、認識しきることは、難しい。自然環境を扱う上でも、例えば山の生態系に介入するのでも、なぜそこにこの種類の草が生えていて、それはほかの生物や生態系にどういう影響を与えているのか、ということすらわからない。富士山の御殿場口の溶岩の砂の大地を歩いていて、一つの岩が安定した地盤としてコケを養い、コケがだんだんと植物を育て、植物が樹木を育て、樹木の根っこが菌類を育て、ほかの場所と見分けがつかないようなただの溶岩の空間に結果としてキノコが生えているのを、まざまざと見ると「石一つがそこにある意味」についてすら考えてしまって、できれば物事をもっと単純に扱いたくなる。その結果として、科学式やお手本があり、生態系という複雑系を扱わない、管理のしやすい土壌を殺した農業の手法が発展してきた意味というのも案外、人間が境界を引いて、単純化して世界を見たがるからかもしれない。

その複雑系の学問が発展してきているが、葉の寿命の科学、なぜ植物が落葉するものがあり、なぜ植物が落葉しないものがあるのか、それはいつからかという問いに応えようとすると、物凄く難しいことになる。白亜紀の植物の進化の過程を見に行くことができれば、わかるような問いになってしまい、そういったものに囲まれて、私たちは普段生きている。旧約聖書のヨブ記では、それこそ世界を作った神が登場して、世界の成り立ちと、物事の因果関係を圧倒的な形で人間に開示するが、基本的に私たちが生きているのは「不可知論」の世界であり、そこでうまくやっていくには、物事の単純化やレッテルが必要となる。

物事の単純化によって、制度を運営しているのが、私たちの社会である。倫理的な課題を含みながら、どこに境界線を引くかというのが政治的な決断である。一方で、いくらオルタナティブな形でも集団を作る際には、どこからが内側でどこからが外側かという境界線を引く。多様性の議論が多くされているがそもそも、その内側の多様性をいかに確保するかという論点となる。ただ、それは政治的な決断であって、集団になるとそういう論理が必要となるが、個人の論理はもっと自由であることができる。

多様性といっても、雑多なものがそこに存在するのが多様性ということもできるが、そもそも多様性というのは世界の在り方であり、力としてそこにあるものでもある。単純化、序列化されて理解されている一つ一つは、ほかの存在が理解できない形で世界を認識しており、そういったものを、理解して力として捉えられるか捉えられないかということの違いは、雑多なものが同じ場所に存在することとは、大きな開きがある。

一つ一つが持つ環世界を理解し、異なったものが同時に存在できるように、距離感を調整する作業が、デザインの力だと思う。分かり合えないけれど、同時に存在できることは力だと思う。予見可能で想像がつくことが安心安全の土台にあることを考えれば、多様であることに変わってゆくことは、不安や恐怖といったものが深まるリスクがそもそもあり、それは有り難いことなのだ。一方で、偏愛や個人的、ニッチな趣味として語られることが多いが、文化や、芸能、言葉はそもそも同質の人に対して発せられて届くものとして作られたのではなく、多様な人達がいる中でも普遍的に人の心に届く強度を持つものとして、存在している。それは、レッテルを張られて一つの狭い枠に閉じ込められるものではなく、多くの境界を越えたところで人々をつなぐ力を持つのが、文化の力の側面でもあると思う。

分かり合えないものが共に生きることができること、多様な人を超えて届くものを作ることができることが、これからを生きる力になることだと思う。