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自然と文化を超えるまなざしを

僕たちの自然の原体験は、例えば里山でミカンが沢山あり、サワガニがいて、大きな川に行けばスジエビ、カジカ、テナガエビがいて、それらを取ってきて、家の水槽に入れて、買ってその前で寝そべってずっとエビの何本もある足が順番に水を書いてユラユラと水の中を移動しているのを見るような子供時代が、確かにあったように思う。庭でダンゴムシや、カナヘビ、アゲハチョウがいて、どんぐりを拾ってきてという、仕事としてプログラムを書く身となってみれば、なんてことのない体験ばかりだ。自然というのは、そういう仕方で、具体的な経験として自分の中にあるものだったように思う。生命は確かに具体的な仕方で目の前に存在していて、そういった世界観の中に確かに生きていたと思う。

近代の人間の精神は、私たちの体は、元素でできており、有機体の生命と身体の共有はしているが、自然界のものとは、魂を共有していない.という認識だ。古来、人間にとって疑問だったのは、死であったのにも関わらず、私たちはいま逆にこの宇宙の中でなぜ生命が生まれたのかということの方を不思議に思うようなありさまだ。私たちが、この「普通」だと思う自然観は、考えてみると、実は多くの前提から成り立っている。常識というのは、案外知識が重なることによってつくられており、それは例えば自然の中で遊んでいる子供の実感から遠いこともあるのだ。

子供が持つ疑問で、まず宇宙がある、星々があるということは、一見すぐには実感として信じられないだろう。テレビや映像の力を借りなければ、巨大なそういうものがあるとはなかなか認識できない。また、逆にミクロの世界もそうだ。実は自分の体は分解してゆくと、ミミズやナメクジを構成しているような元素というものでできているというのは、信じられないだろう。近代の精神と化学は、地動説ではなく、天動説であり、星々や宇宙を認識すること、元素や無機物というものがあること、また進化論、また宇宙の起源は神が作ったのではないという脱魔術化の過程を経て、ようやく今の私たちの認識にたどり着くのだ。

それは、今の私たちにとっては、疑問に思うことすらないことであっても、例えばテレビや本が無い中で暮らしている子供にとって、また自然の中で私たちと違う真実の世界の中で暮らしている人たちにとっては、いくつものステップを踏まなければたどり着けない認識であるかもしれない。そう考えてみると、今の私たちの「普通の」自然観というものから距離を取って観察してみると、そこには不思議なことがいくつもあるかもしれない。

なぜ、自然と文化が分かれているのか、なぜ人間が、経済を優先して、ほかの動物を無条件に殺してもいいのか、私たちの生命の目的や意味がないのかという問いは、別の世界の中では、自明なことではないし、その世界の本質のとらえ方が、自然の転形や撹乱をはじめとする日々の行動や社会規範、社会化の過程つまりは教育を作っている。

私たちの自然と文化の分離、特に精神と身体の分離、物質と生命の分離、宇宙と地球、無機物と有機物、存在と意味の分離などは近代のデカルトを起点とする一つの在り方であってこの分離と科学は、「近代の恵み」ともいえるぐらい、多くの物を私たちにもたらしたと思う。人権の概念や日本では扱った中間層、小児死亡率の低下や、識字率の向上。人間は、物質的な充足と幸福は得て、飢えることはなくなったのかもしれないが、一方でニヒリズムというものとも向き合うことになる。そもそも、充足した私たちの生命の目的は、なんだったのかという問いに、神も、自然も応えてくれる世界はそこには残っていなかったのだ。

この「人間と存在全体の間の断絶」の二元論もたらす疎外を避けつつ、私たちが手にした近代の人間性を確保しつつも自然と共に生きてゆく社会を作る基盤をどうやって作るのか、ということこそが私たちが生きてゆく上での課題である。この課題は、近代的な自然観の中や過去の生活様式の倫理に立ち返るだけでは、それを描くことは非常に困難だろう。また、アニミズムの世界の生活様式に立ち返ること、異なった自然環境の暮らしを一つの理想で普遍的な真理のように取り上げることも適切ではない。文化人類学者のデスコラはこのように語る。

「アマゾニアのインディオや、オーストラリアのアボリジニや、チベットの僧侶が現代という時代について、後期近代のちぐはぐなナチュラリズムよりも深い知恵を持っているのではないかと考えるのは間違いだろう。世界内に現前するそれぞれの仕方、世界と関係して世界を使用するそれぞれの仕方は万人にアクセス可能だが解釈は異なる感覚的経験の諸々の所作と歴史的状況に適した存在者の凝縮様式の間に、特殊な妥協関係を作り上げているのであって、こうした妥協は、いずれも、時にどれだけ称賛に値するものであろうと、あらゆる状況に適した教えの源を提供することはできないのである。」

私たち人間は自然が先立って存在する世界に生まれ、少なからずの負荷と生態系の絶滅を伴いながら、この地球で暮らしてきており、それぞれの環境の中での最適なあり方をそれぞれの素材で模索しながら、暮らしを作ってきたのだ。どんな文化でも、そこに現存していた自然と人間との間に、「妥協関係」というぐらいの関係性の模索をしながら、なんとかその形を模索してきたのだ。自然の存在の意味を見失い、また私たちの存在の意味を見失いつつある世界だが、一方で妥協の中に倫理や畏怖という観念を作り、自然との共生と調停の関係をうまく作りあげてきた生活様式と精神が存在するのだ。

気候変動で人間中心の生活も危機に陥っているが、大量絶滅の時代でもあり、また私自身が富士山で働いているなかでも、ロードキルの現場の最中に、つがいで片割れを失ったテンに怒りと悲しみを感じることや、鶏を飼っていても、その感情をアニミズムの文化圏のように、どこか投影して理解することは、その精神と現実に肉薄することはできなくても、フェアではないと感じる感受性は存在しているように思う。デスコラは、公正に扱われることのない存在者(動物も、自然も、人間も)を持続的で連帯的な形で関係を再構成すること、そのための和解や行動の変容を促すことを作り増やすことは、私たちがいるこの場所で、私たち各自に委ねられている作業であると述べる。

例えば、次の世代に手渡せる未来を考えるときに、自然と人と社会とに公正な形でそれを引き継ぐこと、私たちの行動の倫理の起点をそこにおいて、次の世代に残す自然と、どのように子供たちの認識をひらく、つまりは世界の物語をかたるのかという作業は、私たちがいるこの場所で、取り組むべき仕事であると、その現場にいる一人として、強く思う。私たちの暮らしが自然と共にあることに価値があること、それは歓びでもあること。そういったことを、伝えていきたいと、強く思う。

参考文献

フィリップ・デスコラ『自然と文化を超えて』小林徹訳、水声社、2020年

引用文p.543

Philippe Descola ” Beyond nature and cultre” Translated Janet Lloyd ,The University of Chicago press,2013

ハンス・ヨナス『生命の哲学』細見和之・吉本陵役、法政大学、2008年

渡辺京二「近代の恵み」スタジオ『熱風』2014年1月号