コンテキスト、エシックス、ハビッット‐デザインに先立つもの
パーマカルチャーのデザインや、エレメントを考える前に、コンテキスト、エシックス、ハビット、についての観察が大事かなと考えています。木を植えて、SDGsの商品を消費し、水タンクやコンポスト、ガーデンをついやりたくなりますが、エレメントに引っ張られすぎないことも大切かなと思う昨今です。
コンテキストは、生態系のフィールドと、文化のフィールドの2つに大きくは区分されると思います。生態系のフィールドも、文化のフィールドも、それぞれが変化し続けるものです。火山の噴火や人間の攪乱によって、生態系は攪乱されると、100年で1センチの単位で土壌を再生させています、500年から1000年単位で、森林の遷移が始まってゆきます。一方で、私たちの暮らしは、1900年のほとんどの人が農民だった時期から、この100年で一気に変化してきており、ほとんどの人が自給農で暮らしていた時代から、大量消費、大量生産の社会になり、産業が生産者と消費する人のつながりではなく、分業、中間化の社会になりました。特にその様子を「人口とエネルギーのクライマックス」とデイビッドホルムグレンは、形容しています。たくさんの人口、たくさんのエネルギーを使う生活様式が地球上に出てきた一方で、それは持続可能ではなくどのような形であれ、変化してゆく、特にインフレや、戦争、暮らしのインフラの劣化などの要因で変化せざるを得ない状況になってゆくこと、これを「エネルギー減少時代」という風に名付けています。特に、AIやプラットフォームの台頭、産業の構造の変化によって、ますます暮らしや仕事が変化し、それに伴って、自然と人との関係も変化してゆくでしょう。
エシックスは、生態系、文化どちらも、何を理想とするのか方向性があります。コンテキストを受け入れるのか、新しい方向を目指すのかという立場の立て方や、どちらかに振り切れることができないとき、どのあたりを落としどころとするのか、その判断は倫理的な判断となります。パーマカルチャーの倫理は、アースケア、ピープルケア、フェアシェアの3つがありますが、デザインするうえで、どれをも満たすことができるリソースが不足していることが常にあり、どちらかを取らなければならないことも往々にしてあります。基本的に、人間は日当たりが良く平らで水も手に入るような場所を縄文のころから住居として使っていましたが、日本の場合も世界の場合も、そういった場所は、生物にとっても草原や湿地などの貴重な場所で、安定していた森があった場所だったと思います。日本には今、平地の草原は少なくなっていますが、そういった場所はシカや兎が好きな場所だったであろうと思います。人間の暮らしは、人間の暮らしの快適さがあって、境界、ゾーニングの概念は昔から倫理的な線引きも含まれていたのかもしれません。
ハビットは、コンテキストとエシックスの無意識の表出として、私たちの日々の行動があります。その奥には、大切にしたいことや今まで行ってきた生活様式の影響があり、コンテキストの影響を強く受けています。「自然保護が大事だ」という理念や「今の社会は間違っている」というイメージを保ち続けることができた時に、それが実際の生活にコンポストを導入する、野菜を作ってみるなどどこまで影響を与えられるのかが難しいところです。特に、今は便利な世の中になっているので、何かを「消費」して満足してしまうことが多く、生活様式、ハビットまで変化することは難しいと思います。特に、1900年の時に暮らしに戻ること、自給農の暮らしには限界があり、現代の貧困や飢饉はむしろ、食料の絶対量が足りないのではなく、人々がそこにアクセスする手段がない、逆にお金を配って市場にちゃんとアクセスすることができれば、食料が手に入る、資源の分配の問題であったりもします。また、日本のコンテキストでいえば、限られた国土の中で太陽光から生産できるエネルギーに対して、人口が多く昔の暮らしに戻ったとして、多くの人が豊かな生活を送れるかというと疑問が残ります。江戸時代の一時期ではむしろ、集落に近い山々は、豊かな森ではなく近郊の山は炊事や風呂が燃料となっていたため、薪炭林は重宝され、奥山からも木を軽くして搬出するために、炭にして持ち出していました。徹底的に自然を使い倒す生活様式があり、そういった社会を理想とするかという判断こそが、エシックスの課題であると思います。
私たちは、今までの自分の文化のコンテキストの中に生きていますが、そこには大きくも小さくも、倫理的な判断があり、それによって生活様式が形作られています。それは、不変のものではなく、むしろなくなっていこうとしている過去の文化を拾い集めて、積極的に私たちが大切にしたい願いをかなえるためにデザインしてゆけるものであるのだと思います。