パーマカルチャー

サスティナビリティという「ペット」と共に生きられるか

私たちの暮らしは、いわば農村で自給農をしていたときから、いろいろな「私たちと共に生きてきた存在」から自由になってきた。食べるためには、生き物と共に生きてこなければならなかった。植物は、私たちに主食を木の実や穀物といった形で食べ物と燃料、また住居を供給してくれていたし、動物や昆虫は、食料や衣類を提供してくれていた。また、何より、こういった暮らしを一人で行うことはできず、規模の力、協働の力や分業の力があることによって、コミュティや地縁の組織と共に生きることとなった。

現代の社会は、こういったことを地球規模で外部化して誰かにお願いすることによって、個人がたくさの存在と共にいなくても、生きていける自由な世界になってきた。仕事さえしていれば、お金が手に入り、衣食住を確保できるようになってきた。地縁があった時代、その地域の生産関係における不平等は常に発生していた。それを正当化する世界観は理想郷とされるどの世界にも様々な真実として存在していただろうし、その世界の外に出たいと願っていた人たちにとっては、進歩した時代になったともいえる。私たちが、近代になって様々な問題と呪いと引き換えに得た「人権」というコンセプトは、それが実現するためにあらゆる差別と不平等と戦ってきた人たちに報いる真実の一つとなったと思う。

一方で、私たちが自由であるために引き換えとして、消費社会というものが立ち上がってきた。たくさんの存在を直接ケアしなくても生活が成り立つようになってきた。ごみ処理、電気、暖房、衣類、食料などのシステムは、お金で買えるものとなった。それらは、誰かが世話をしてくれるとなった時に、人は自分の責任の外に出たことには、それが世界のために本当になっていて、悲しい思いをしている人の存在の上に成り立っていないか、時間を前借して、枯渇するようなものの上に成り立っていないか、後世のためにならないものを使っているのではないかというチェックがどうしても甘くなる。これが、持続可能な社会を阻む根源の理由の一つであると思う。

少しでも、今の社会の中で暮らしながら、持続可能な暮らしを営もうとすると、自分を成り立たせてくれているシステム、ごみの処理や食料生産、熱などのエネルギーをちょっとでも自給してみようと試みると、たくさんのケアをしなければならない存在に気が付くはずだ。また、生物だけではなく、教育や地域社会など人間と関わることにも、ケアや時間をかけて話を聞く理解をすることが必要になる。

また、チェーンソーなど道具を使おうとすると、道具はそれ単体で存在するのではなく、人間の身体や知識の集積と伴ってはじめてうまく使えることができる。現実に働きかける多くのものが、一つの小さなシステムとして成り立っている事に初めて気が付かされるだろう。持続可能な暮らしを試みると、消費ではなくまるでたくさんのペットを飼うことを強いられる感覚がするともいえるかもしれない。

ペットを飼うのに、完璧がないのと同じように、望んでいた結果と現実の間の妥協や、結果がすぐに早くみえることが少ないことも多く、時間と共に移ろい、変わりゆくことも特徴の一つだ。

ペットを飼うと考えれば、消費する生活よりも、デザインと戦略、またどこがゴールであるかという目印が明確にあることがとても重要である。また、イメージだけではなく、自分が飼おうとしているペットが自分の幸福にちゃんと結びつくものであるのか、それぞれの存在がちゃんと活かしあう形で空間に適切に配置できるのかということが大事になってくる。

これは、個人の暮らしに適応できるだけではなく、プロジェクトとして何かを誰かと協働で行うときにも、おなじことがいえる。パーマカルチャーは、農業やガーデニングの手法として捉えられがちですが、こういった暮らしの「システム」をどのようにデザインしてゆくかを、学びなおすためのデザインの考え方であり、サスティナビリティという「ペット」と共に生きるための手法でもあります。