UNITEDについて

協働の座組を探ること

今の都市で人口の大半の人が暮らす消費社会の在り方では、自然と遠いという第一の距離がある。そして、第二の距離として、分業化の社会になっていることで、身の回りの衣食住に関する個別具体な技術論すべてから私たちの日常は遠い。

それは身近なところで考えると例えば、今自分が住んでいるアパートの素材を書き出すことも、難しい。また実家の家に根太が何本入っているのかを知らない。昔の農村や自給自足で暮らしている少数民族ののように、集落で共同で自分の家を作っていて、誰もが簡単な大工仕事ができる時代ではないのだ。私たちの住んでいる世界は、建築は、建築事務所が、施工は大工さんが、と分かれている。

パーマカルチャーを学んでいる人、さらに言えばパーマカルチャーの講師の僕自身、また教えている人にとっても、現代の建築にまつわる法体系や技術に関して距離があるぐらいで、建築事務所の人々も日々アップデートされる法律や規制を勉強し続けている。

自分たちで失敗して、不格好でいいから何か作れればいいというスタンスで建築に向かう実践の在り方もたしかにあり、そういった建物を建てている人もいる。そもそも法体系・法規制というのは、予算や知見がなく、手前勝手に人々が行ってしまうとやりがちな「人間の弱さ」に対して、規制をかけて不幸な思いをする人がでないようにしているという側面もあるのだ。

AI、ハウツー本やYouTubeなどの多くの「ノウハウ」の情報が世にあふれ、ますます身近に簡単にアクセスできるようになる一方で「失敗の物語」は、私たちの目に留まることが少ない。

それはおそらく、語るに値しないつまらないことだからだろう。

多くがケアレスミスや不注意、実体験や専門性のある人に相談出来たら防げたようなことも少なくない。専門性がなくてもできてしまうように勘違いするぐらい建築やDIYのハウツーがあふれる一方で、規制や体系をあまりにないがしろにすると、個性を発揮する以前にものすごく初歩的でつまらないところで躓く。その結果として人を悲しませることや、ごみを生み出すことは、何を目指していたとしても、きわめてパーマカルチャー的ではないなと感じていた。

今回、ビオフォルム環境デザイン室の山田さんと対話をして協働の座組を探る機会を設けていただいたが、専門的なことは、専門の知見を得ている人と協働することには、価値があると思う。UNITEDは、講師として建築や自然から遠くなってしまった人たちに言葉を届ける技術論の持つ人間として、建築のプロセスのどのあたりにそういった技術が入る余地があるのか、対話して模索する時間を設けていただいた。

ものの見方として、山田さんと盛り上がったことは、UNITEDのブログにも書いた、エシックス、コンテキスト、ハビット、エレメント(ここでは技術)、デザイン、に建築の視点からだと、プロセスの流れがあるということだ。

まず、「背景」として気候風土、その土地の自然が存在する。そして、その自然とのかかわり方を「倫理的」なありかたで決めて、次に「技術」があり建築の様式が決まる。そして「デザイン」があり、その中で人々が「日々の習慣」として建築と共に暮らしがあるという見方だと。

パーマカルチャーは、「全体のデザイン」として、このプロセスそれぞれに対して思索をするが、現代の消費社会の精神だと生活者、建築士、それぞれの立場の目の届く範囲は限られている。

自然素材を使った建築に興味がある人が、日常的に畑をして、それはつまり日常的に料理をするというようなことを、生活者に求めるのは確かに「エコ」的な暮らしかもしれず、「正しい」気がするが、それを万人に求めるのは少し無理があるように思う。料理が好きな人、建築が好きな人、野菜づくりや自然とかかわることが好きな人、今の社会の良い面は、それぞれの在り方が優しい形で肯定される社会だと思う。

こういった考え方を僕の中で、正義と相対主義という二極に分けて整理している。それぞれの立場は「みんなのために正しいことはするべきで、できない人は悪い」という正義と「私はこれが正しいけど、今の時代多様化しているから人それぞれだよね」という相対主義というざっくりした捉え方でここでの議論を進める。

相対主義は「正しくない」と「正義側」からみると見えるかもしれないが、正義をあまりにつよく人に強要するのはやさしくないと、相対主義の人からは見えるだろう。

優しさをもったまま、行動を変化してゆくには、それこそ対話と協働が必要なんだと思う。そしてそのプロセスは、時間がかかるし学ばなければならないことが多いし、人の視点をまるで自分のことのように身体化する技術も必要だろう。そして、議論できる程度には技術論も知らなければならない。たとえ地味な話題であっても、それぞれのまなざしを得るような知見を身に着け、個別具体な技術論を話して協働の座組を探ることではないかと感じる対話の場を通して感じた。

全体のデザインを扱うために、それを学んだ人が自分自身で全部できるようになることよりも、全体ってこういう輪郭かなということを大雑把でいいからつかみ、個別具体な技術論は専門性のある人と対話できるようになることが必要だろう。地域社会や関係する人の中で同じ言語と、同じ全体と方向性を見ながら、一つの方向にそれぞれが向かってゆくことがとても重要かと思う。

パーマカルチャーが時に大きく喧伝されすぎているとデイビッド自身も語っているが、「全体のデザインを考えたいから、分野を超えて対話しましょう」という土台やきっかけ、基本となるものの見方としての役割を、パーマカルチャーという言葉が発端となることぐらいの期待感が、ヘルシーだとも感じた。